独ソ開戦後のフランス共産党 - 青年部隊(義勇遊撃隊)結成
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1941年6月にドイツ軍がソ連領内に侵攻を開始した(独ソ開戦)。これにより、1939年8月23日の独ソ不可侵条約が事実上破棄され、すでに5月に対独レジスタンス・グループ「国民戦線(フランス語版)」を結成していた共産党は、これを機に、ヴィシー政権の対独協力政策に対して公然と反対を表明し、さらに7月にモスクワのコミンテルンからの指令を受けてゲリラ戦を開始した。このとき、共産主義青年運動の青年らによる青年部隊(Bataillons de la jeunesse)(後の義勇遊撃隊)が結成され、26歳のアルベール・ウーズーリアス(フランス語版)とファビアン大佐と呼ばれた22歳のピエール・ジョルジュ(フランス語版)がこれを率いた。最初の攻撃は、ピエール・ジョルジュと22歳のジルベール・ブリュストラン(フランス語版)により1941年8月21日にパリの地下鉄バルベス・ロシュシュアール駅(フランス語版)で行われ、2日前に2人の仲間が殺害されたことに対する報復として、ドイツ軍の見習士官を殺害した。これを受けて、ドイツ軍国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテルは、以後、このようなゲリラ活動への報復措置として人質を処刑するという命令を出した。ゲリラ戦とは直接関係のない人質が多数処刑されることになったのはこのときからである。
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