ラモー:王太子妃
皇太子妃
王太子妃
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「カトリーヌ・ド・メディシス」の記事における「王太子妃」の解説
1536年、アンリの兄フランソワがテニスの試合後にひいた風邪が元で熱病に罹って死去し、アンリが王位継承者となった。王太子妃となったカトリーヌは将来の王位継承者を生むことを期待されるようになる。宮廷年代記作家ブラントーム (en) によれば「多くの人々がフランス王家の継承を安泰にするために彼女を離縁するよう王や王太子に勧めた」という。離婚が議論され、絶望的な状況に置かれたカトリーヌは妊娠するために当時知られるあらゆる手段を用いた。牛の糞と雄鹿の角を彼女の「生命の源」に貼り付けたり、騾馬の尿を飲むことまでした。1544年1月20日、彼女はついに男子を生み、王にちなんでフランソワと名づけられた。 一度、出産を経験すると、以降カトリーヌは妊娠することに何らの支障もなくなった。これは王太子夫妻の生殖器の異常を指摘し、解決法を助言した医師ジャン・フェルネル(フランス語版、英語版)の功績とされる。その後、カトリーヌはアンリとの間に9人の子を産み、そのうち7人が成長し、その中には将来のシャルル9世(1550年6月27日生)、アンリ3世(1551年9月19日生)そしてエルキュール・フランソワ(1555年3月18日生)が含まれる。14世紀以降フランスを統治していたヴァロワ朝の将来は安泰かと思われた。 新たに見つかった彼女の妊娠をする能力は、夫婦関係を改善することにはならなかった。アンリは18歳年上のディアーヌ・ド・ポワチエを愛妾にしており、彼女がアンリの愛情を独占していた。もっとも、アンリは配偶者としてカトリーヌの立場を尊重してはいる。1547年にフランソワ1世が死去してアンリが即位し(アンリ2世)、カトリーヌはフランス王妃となる。1549年6月、彼女はサン=ドニ大聖堂で戴冠した。
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王太子妃
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1810年12月22日、デジレは息子のオスカルと共にスウェーデンに到着する。翌年1月6日、ストックホルムの王宮にて、王族たちと引き合わされた。彼女は冬季に旅をしたことで疲弊しており、また一段と厳しいスウェーデンの気候に衝撃を受けた。王位継承者である夫と息子はプロテスタントである必要があったが、彼女には改宗義務はなかったのでカトリック教徒であり続けた。デジレは王太子妃として求められる宮廷の作法や典礼に馴染めなかった。スウェーデン国王カール13世の王妃ヘートヴィヒ・エリーザベトは日記にて、デジレは心根がよく、おおらかで、朗らかな性格をしているとしながらも、未熟な甘やかされた子供で、フランス式でないあらゆる事に文句を言っているため、周囲に好かれていないと描写している。 同年夏、公的には健康上の理由で、デジレは単身スウェーデンからパリに戻った。パリでは、ゴットランド伯爵夫人の変名で暮らした。戻ってきたデジレを、当初ナポレオンはスパイではないかと警戒し入国をなかなか許可しなかったが、彼女を通じて夫のカール・ヨハンと連絡を図ることにした。ただし、彼女のパリの居館は常に秘密警察によって見張られており、夫との手紙も彼らによって妨害された。デジレはしばしばタレーランやフーシェと接触しており、1812年にフランスとスウェーデンの関係が悪化していくと、デジレはフランスの外務大臣のマレを通じてナポレオンと夫との調停を図ろうとした。夫のカール・ヨハンも、彼女をパリに置く事で外交調整を行うと共に、ヨーロッパ政治中枢の情報を入手した。ただし彼らの間の手紙は失われており、それがどれほど政治的に重要な物だったかは不明である。カール・ヨハンがイェーボでアレクサンドル1世と会談をした際に、ロシア皇帝から妹との結婚を勧められたが、彼は断っている。 ロシア遠征に向かうにあたり、ナポレオンはデジレに国外退去するよう命じたが、彼女は上手いことそれを回避した。1813年、スウェーデンとフランスが宣戦布告すると、彼女は人目を避ける為にジェローム・ボナパルトの妻カタリーナ・フォン・ヴュルテンベルクと共に、姉ジュリーの田舎の居館へと身を移した。パリには同年の大晦日に帰還する。ナポレオンが敗北した後、3月31日にロシア軍がパリに入城した際には、ジュリーを自邸に匿った。またデジレはまだパリに到着していない夫に宛てて、「貴方がロシア皇帝よりも先にパリ入城ができなくて極めて残念です。それができていれば貴方の為にも、貴方を支持する人々の為にも、よい影響がもたらされたと思います」と書いて送った。その後パリで夫と再会するが、共にスウェーデンに戻らなかった。スウェーデンのガルディエ伯爵にその理由を尋ねられた際、もしスウェーデンに戻ったら離婚する事にならないか心配していると答えた。 翌年の百日天下の後、ボナパルト一族は国外追放処分を受ける。パリに残ったデジレにとって最大の関心事は最愛の姉ジュリーの身柄の安全だった。彼女はルイ18世の宮廷に頻繁に顔を出し、ジュリーをパリに戻してもらえるよう嘆願した。時には姪の夫にあたるスーシェ元帥と一緒に国王に働きかけた。1816年、ジュリーと共にスウェーデンに渡ろうとしたが、夫のカール・ヨハンは国際社会の警戒心を招きかねないとして許可せず、ジュリーの身柄はフランクフルトに移された。この時期デジレは、旧友のスタール夫人やレカミエ夫人と頻繁に時間を過ごしている。
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