ラモー:王太子妃
皇太子妃
(王太子妃 から転送)
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皇太子妃(こうたいしひ、英: Crown Princess)、王太子妃(おうたいしひ、英: Crown Princess、または英: Princess of Wales)とは、皇太子(王太子)の妃の身位、またその身位にある人をいう[1]。
日本の皇太子妃
概要
日本の皇太子妃は、東宮妃(とうぐうひ)、春宮妃(はるのみやひ)とも称される。
皇太子妃 |
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皇太子妃旗
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在位中の皇太子妃 | |
空位 2019年(令和元年)5月1日より |
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詳細 | |
宮殿 | 東宮御所 |
ウェブサイト | 宮内庁 |
称号:皇太子妃 |
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敬称 | 皇太子妃殿下 Her Imperial Highness the Crown Princess |
和語では「ひつぎのみこのみめ(日嗣の御子の御女)」という。皇太子妃は、親王妃(皇室典範第5条、第6条)にあたり、皇族(内廷皇族)とされる。敬称は「殿下」である(同法第23条第2項)。また皇統譜での表記は皇太親王妃(こうたいしんのうひ)である。
皇太子妃は夫である皇太子が皇位継承するに伴い立后し、皇后になる。
皇太子妃が成婚前より内親王又は女王であった場合は、成婚後も皇后となるまでは、親王妃であるとともに引き続き元来の身位も併存(保持)する。
- 具体例:(久邇宮)良子女王(ながこじょおう)→皇太子裕仁親王妃良子女王(こうたいしひろひとしんのうひながこじょおう)→皇后 良子(こうごう ながこ)→皇太后 良子(こうたいごう ながこ)→香淳皇后(こうじゅんこうごう)(追号)
皇太子妃は以下のいずれかを満たした場合、皇族の身分を離れ皇太子妃としての地位を失う。(同法第14条)
日本国政府による正式表記(内閣告示、宮内庁告示など官報における記載)は「皇太子○○親王妃××」となる。ただし、宮内庁ホームページのように「一般国民へのわかりやすさ」を重視する場面、あるいは植樹や供花などでは「皇太子妃」が、歌会始では「東宮妃」などの表記も用いられる。
現在の日本の皇太子妃
平成時代(1993年〈平成5年〉6月9日〜2019年〈平成31年〉4月30日)は皇太子徳仁親王の妃・雅子が皇太子妃であったが、同年(令和元年)5月1日に皇太子徳仁親王が皇位を継承したことによる雅子の立后と、現行の皇室典範の下では初めて皇太子が空位になったことに伴い、皇太子妃も空位となった。
一方で、皇嗣となった秋篠宮文仁親王の妃・紀子が皇嗣妃となった。
日本以外
日本以外の国における王太子(皇太子)の妃については、王太子妃(皇太子妃)の称号が用いられる場合がある。中国では皇太子妃と名乗っていて、正確な情報が残る中で最初の皇太子妃は薄皇后、最後の皇太子妃は愛新覚羅胤礽の妻である瓜爾佳氏(後に廃位)とされる。
一方、朝鮮では皇太子の称号が使えず、国王の継承者は「王世子」と呼ばれていた。それに伴い、王世子の配偶者は「王世子嬪」の称号が用いられていた。
脚注
参照文献
文献資料
- 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)ISBN 400080121X
- 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)ISBN 4385139059
関連項目
王太子妃
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「カトリーヌ・ド・メディシス」の記事における「王太子妃」の解説
1536年、アンリの兄フランソワがテニスの試合後にひいた風邪が元で熱病に罹って死去し、アンリが王位継承者となった。王太子妃となったカトリーヌは将来の王位継承者を生むことを期待されるようになる。宮廷年代記作家ブラントーム (en) によれば「多くの人々がフランス王家の継承を安泰にするために彼女を離縁するよう王や王太子に勧めた」という。離婚が議論され、絶望的な状況に置かれたカトリーヌは妊娠するために当時知られるあらゆる手段を用いた。牛の糞と雄鹿の角を彼女の「生命の源」に貼り付けたり、騾馬の尿を飲むことまでした。1544年1月20日、彼女はついに男子を生み、王にちなんでフランソワと名づけられた。 一度、出産を経験すると、以降カトリーヌは妊娠することに何らの支障もなくなった。これは王太子夫妻の生殖器の異常を指摘し、解決法を助言した医師ジャン・フェルネル(フランス語版、英語版)の功績とされる。その後、カトリーヌはアンリとの間に9人の子を産み、そのうち7人が成長し、その中には将来のシャルル9世(1550年6月27日生)、アンリ3世(1551年9月19日生)そしてエルキュール・フランソワ(1555年3月18日生)が含まれる。14世紀以降フランスを統治していたヴァロワ朝の将来は安泰かと思われた。 新たに見つかった彼女の妊娠をする能力は、夫婦関係を改善することにはならなかった。アンリは18歳年上のディアーヌ・ド・ポワチエを愛妾にしており、彼女がアンリの愛情を独占していた。もっとも、アンリは配偶者としてカトリーヌの立場を尊重してはいる。1547年にフランソワ1世が死去してアンリが即位し(アンリ2世)、カトリーヌはフランス王妃となる。1549年6月、彼女はサン=ドニ大聖堂で戴冠した。
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