王太子の治療
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1871年、ガルは王太子(後の国王エドワード7世)の侍医として、腸チフスに罹患した王太子の治療の指揮を執った。 1871年11月13日、サンドリンガム・ハウスに滞在中の王太子に、最初の病気の兆候が見られた。当初、キングス・リンのロウ医師とオスカー・クレイトン(英語版)医師が王太子を診察したが、彼らは指のただれが原因で熱が出たと診断した。しかし、1週間経っても熱が下がる気配がなかったため、腸チフスと再診断し、11月21日にガルを、23日にウィリアム・ジェンナー(英語版)を呼び寄せた。腸チフスだけでなく気管支炎も発症していたことが判明し、王太子は何日も危篤状態となった。それから1か月間、王太子の容態を伝える日報が発行され、全国の警察署にも掲示された。『19世紀の名医』(Great Doctors of the Nineteenth Century)の著者であるウィリアム・ヘイル=ホワイト(英語版)は次のように書いている。 当時、私は少年で、父は毎晩私に警察署で最新のニュースを入手させた。速報が1日1回しか発行されなくなったのは、クリスマス直前になってからのことだった。 『タイムズ』紙の1871年12月18日号には次のように書かれている。 ガル博士には、疲れを知らないエネルギーと、衰えを知らない注意深さが備わっていた。非常に優しい看護、非常に細やかなケアは、医師、助手、調剤師、従者、看護師の職務を兼ねているように見えた。譫妄状態の病人に優しく愉快に話しかけ、他の全てが失敗したときのための力の蓄えとなるわずかな栄養を取るために乾いた唇を開かせ、衰弱した体をベッドから持ち上げてやつれた体を酢で洗い、目と耳と指を研ぎ澄ましてあらゆる変化を把握し、顔と心臓と脈拍を見て、時には12時間も14時間もベッドサイドで過ごした。そして、その時間が終わったとき、あるいはその時間が続いている間にも(医師の仕事は何と大変なものなのだ!)、試練に耐えかねている彼女を優しく、しかし希望に満ちた言葉でなだめ、絶望しないように、自信を失わないように助言した。王太子が回復した後、ウィリアム卿は「彼は、ガイズ病院の患者と同様の十分な治療と看護を受けた」と述べている。 王太子の回復後、シティ・オブ・ロンドンのセント・ポール大聖堂で、ヴィクトリア女王も出席して感謝の礼拝が行われた。王太子の治療の功績により、1872年2月8日、ガルはブルック・ストリートの準男爵に叙任された。 ガルはまた、ヴィクトリア女王の典医にも任命された。ただし、この時女王の主治医は4人おり、200ポンドの年俸を受け取っていたが、ほぼ名誉職だった。女王は上級医師のウィリアム・ジェンナー(英語版)以外には一度も会うことがなかった。
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