王太子ルイの招聘と歓迎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 08:26 UTC 版)
「第一次バロン戦争」の記事における「王太子ルイの招聘と歓迎」の解説
マグナ・カルタの承認問題に端を発したこの戦争は、イングランドの王座を巡る戦争へと変化する。造反諸侯は、戦力的な不利を打開すべく、フランスのフィリップ尊厳王の息子、王太子ルイに助けを求めた。この当時、ノルマン・コンクエストから150年ほどしかたっておらず、イングランドとフランスの関係は後々のような単純な敵対関係ではなかったのである。現代に残る史料、『ウェイバリーの年代記』は王太子ルイがイングランド侵攻のために招聘されたことについて、「外敵によって略奪されている王国を守るため」であった、という明確な表現をしている。 ルイは、1215年11月、ロンドンを防衛するために騎士による派遣団を送った。この時点において父親たるフランス王や教皇からの反対があったのにもかかわらず、彼はあからさまなこの「侵略行為」について同意していた。1216年5月21日、サネットの海岸防衛兵は水平線のかなたに帆影を発見し、翌日、ジョン王とその軍は、ルイの率いる侵略軍がケントの沿岸に上陸する様子を目にすることになった。ジョン王はサクソン人の中心であるウィンチェスターに逃亡することを決意したため、ルイはロンドンまでの行進についてほとんど抵抗を受けることがなかった。ロンドン入城後も目立った抵抗を受けることはなく、造反諸侯や市民達から公然と歓迎を受けた。ルイは戴冠こそしなかったが、大聖堂においてイングランド王位につくことを宣言した。スコットランド王のアレクザンダー2世を含む多くの貴族たちは、イングランド内の自分たちの財産を保持するために集まって、ルイに忠誠を誓った。 6月14日、ルイは、ウィンチェスター(ジョン王はすでに退避済みであった)を攻略する。この時点で既にイングランドの半分以上を征服してしまったことになる。こうした流れを受けて、ジョン王の支持者のうち多くのものは、造反諸侯に鞍替えした。ジェラルド・オブ・ウェールズ(英語版)は、「狂気に満ちた奴隷的服従の時代は終わり、自由の時代がやってきた。イングランドの首は、くびきから解放されたのだ」と評している。
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