王太后・太王太后時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 03:18 UTC 版)
「メアリー・オブ・テック」の記事における「王太后・太王太后時代」の解説
夫ジョージ5世と死別し、長男エドワード8世が王位に就くと、メアリーは王太后となったが、王室に及ぼす影響力は相変らず強いままだった。王太后としての責務を重要視し、中でもイギリス王室の品位を汚すような言動に対しては、自身の子供たちに対しても極端なまでに厳格な対応を取るようになった。特に、エドワード8世が最終的にウォリス・シンプソンと婚約する意思を表明し、結婚に対して国内から強い反発が沸き起こった際には、彼の退位に相当なまでの影響力をかけたことは、つとに有名である。 他にも、生来病弱な上に吃音の障害をかかえる次男ジョージ6世に対して、国民から国王としての適性を危ぶむ声があがったり、三男グロスター公ヘンリーが同性愛者であるとの疑惑が浮上したりするなど、子供たちに関するスキャンダル等への火消しにも強い態度で臨み続けた。 また、「未亡人となった王妃は、新王の戴冠式には出席しない」という王家の不文律を破り、ジョージ6世の戴冠式に出席した。 第二次世界大戦中、空襲の激しいロンドン(バトル・オブ・ブリテン)や、息子ジョージ6世の家族が週末を過ごすウィンザー城を避け、姪メアリー(英語版)(弟ケンブリッジ侯アドルファスの娘)の嫁ぎ先であるボーフォート公ヘンリー・サマセットの居城バドミントン・ハウス(英語版)へ避難していた。 戦後、1952年2月6日に次男ジョージ6世が崩御した。孫娘のエリザベス2世が女王に即位して、エリザベス王妃が王太后となり、太王太后となったメアリーの落胆は大きく、国民にもその悲哀が伝わるほどだった。翌1953年3月24日、同年6月のエリザベス2世の戴冠式(英語版)を見ることなく満85歳で崩御した。
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