会戦に至る機動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 06:26 UTC 版)
「イエナ・アウエルシュタットの戦い」の記事における「会戦に至る機動」の解説
フランス軍は3つに分かれ、まずライプツィヒ、およびドレスデンへ向けて分進合撃した。第5軍団・第7軍団はイエナ方面へ、親衛隊・第1軍団・第3軍団はナウムブルク方面へ、第4軍団、第6軍団はゲーラ方面へ、小規模な戦闘でプロイセン軍先鋒を撃破しつつ進軍した。このフランス軍の接近に対し、ブラウンシュバイクは決戦のための態勢を整え始めた。 10月9日の時点で、プロイセン軍主力のブラウンシュヴァイク軍はヴァイマル、ホーエンローエ軍はイエナ、リュッヒェル軍はエアフルト、予備のヴュルテンベルク軍はマクデブルクにあった。ブラウンシュヴァイクは、まずヴュルテンベルクに主力との合流を命令。次にリュッヒェルにザクセン・ワイマール公に10,000の分遣隊を与えてマインツ方面へ派遣し、フランス軍の後方連絡線を脅かすように命じた。ブラウンシュヴァイクは、ホーエンローエと合流し、決戦に挑むつもりであった。しかし、ここでもプロイセン軍の指揮と連絡の不徹底が災いし、行動に移る前にフランス軍が接近していた。 10月10日早朝、ランヌの第5軍団がザールフェルト近郊でホーエンローエ軍の先鋒であるプロイセン王子ルイ・フェルディナントの師団約8000名と接触、ザールフェルトの戦い(英語版)が生起した。第5軍団は昼過ぎまでにプロイセン軍を撃破、指揮官のルイ・フェルディナントを戦死させた。プロイセン軍は死傷900名、捕虜1,800名の損害を出して後退、第5軍団の損害は200名あまりに過ぎなかった。 緒戦の敗北とルイ・フェルディナントの戦死は、プロイセン軍の士気を大きく低下させた。フランス軍が予想以上に強大である事を知ったプロイセン軍は、撤退を考え始めた。本領まで後退し、ロシア軍の援軍を待ってから反撃に出るという一度は却下した作戦を、改めて実行しようとしたのである。しかし、撤退の是非をめぐって軍議は紛糾し、結論が定まらぬままにプロイセン軍は時間を浪費していった。 10月12日、ダヴーの第3軍団がナウムブルクを制圧、市街西方で野営地を張った。ベルナドットの第1軍団は同日夕刻に市街南方に到着、同様に野営地を張った。このナウムブルク制圧の一報はプロイセン軍を大いに動揺させた。フランス軍によって包囲されつつある事に気がついたのである。ここにおいてブラウンシュヴァイクは撤退を決断し、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世もこれを承認した。 10月13日、ブラウンシュヴァイクは、ホーエンローエ軍にイエナ近郊で敵の前進を阻止し、主力の後退を援護するように命じた。さらにリュッヒェルに分遣隊を呼び戻させて、ホーエンローエに合流するよう命じた。しかる後、ブラウンシュヴァイクは主力をナウムブルク方面へと後退させ始めた。これが早朝の事であった。 同じ頃、第5軍団がイエナに到着、市街の北方にホーエンローエ軍を発見した。この報告を受け取ったナポレオンは、これをプロイセン軍の主力であると考えた。ナポレオンはこの軍を撃破するべく、第4軍団、第6軍団に強行軍で本隊と合流するよう命じ、自身も親衛隊を率いてイエナへ向かった。 同日夕刻、第3軍団にはアポロダ方面へ向かい、プロイセン軍の後背をつくようにとの指令書が届いた。ダヴーは指令書の写しを作ってベルナドットに送った。参謀長ベルティエによる以下の注意書きが指令書にあったためである。 「貴官(ダヴー)がポンテ・コルヴォ公(ベルナドット)と共にある場合は、共に進軍してよろしい。ただし、皇帝は彼がドルンブルクにあることを願っている」 これはおそらくドルンブルクに存在するプロイセン軍分遣隊の対処のためであった。イエナのプロイセン軍が主力であると誤解していたナポレオンは、ドルンブルクの敵軍に側面を脅かされることを警戒し、また同地を確保することによって敵軍の退路をふさぐことができると考えたのである。しかし、この注意書きのために、ベルナドットの第1軍団は命令を墨守してドルンブルクへ向かうこととなり、ダヴーの第3軍団は単独でプロイセン軍主力と相対することとなる。
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