会戦に到るまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 06:03 UTC 版)
「ガザの戦い (紀元前312年)」の記事における「会戦に到るまで」の解説
アレクサンドロス大王の死後に起きた大王配下の武将達による争い(ディアドコイ戦争)を勝ち抜いてきたアンティゴノスは著しい勢力の拡大を遂げることとなり、これに脅威を覚えた他の武将達との対立を深めた。紀元前315年、それまでアンティゴノスと同盟していたバビロニア太守セレウコスがアンティゴノスと決別し、身の危険を感じたセレウコスはバビロニアを逃れてエジプト太守プトレマイオスのもとに身を寄せた。セレウコスはアンティゴノスによるアレクサンドロス帝国統一の野望をプトレマイオスに教え、そしてまたトラキア太守リュシマコスとマケドニア本国の帝国摂政カッサンドロスにもアンティゴノスの脅威を説いて、対アンティゴノス大同盟を結び、アンティゴノスに対して複数の方面から攻撃を仕掛けた。 その一環としてプトレマイオスは部下を小アジアとキュプロス島に送り、自らは紀元前312年にセレウコスを伴い、歩兵18000と騎兵4000を率いてシリアに向け侵攻した(侵攻の大義名分はアンティゴノスがカッパドキア太守エウメネスとの戦いで獲得した領土等をアンティゴノスに協力した他のディアドコイに配分しなかったことであった)。当時、アンティゴノスはカッサンドロスの勢力圏のギリシアに遠征していたため、父アンティゴノスよりシリアを任されていたデメトリオスが歩兵12500と騎兵4400と戦象43頭を以ってそれをガザにて迎え撃った。この時アレクサンドロスの許で幾多の戦いを経験した歴戦の勇士プトレマイオスを相手にするデメトリオスは22歳の若者であり、このような大軍の統率にはなれていなかった。
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