会戦の終結
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3月28日、第33軍(決勝軍)指揮所においてこの後の作戦を決める重要な会議が行われた。第33軍参謀辻政信大佐は自軍の対戦車戦闘による多大な損害を述べた上で、 「敵戦車1両を破壊するのに火砲1門と人員50名の犠牲とを必要とする。したがって残存約100両の戦車を破壊するためには約80門の火砲と5千の人員を補充しなければならない。それまでにしてなお、作戦を継続し、メイクテーラ奪還を強行しなければならぬかどうか、方面の真意を承りたい」 と田中方面軍参謀長に詰め寄り、いまだ攻撃意思を持っていた田中参謀長をしてついに第33軍の任務解除を承諾させた。これによりイラワジ会戦は終結した。 イラワジ渡河以降、3月末までの英連邦軍の損害は概算して約1万8千名(内7500は戦病者)で、日本軍の損害も概算して12913名である。この後の後退戦において日本軍は、敗戦までに15万人以上の戦死者を出している。あえて決戦を強行したことによってビルマ方面軍の破滅を早めてしまったことは日本軍にとって大きな痛手となった。また、マンダレー失陥はビルマ人民の変心を招くという政治上の打撃となっただけでなく、第15軍は兵站支援中枢を失い、第33軍は後方連絡線を遮断されてしまった。『戦史叢書 イラワジ会戦』において、不破博編纂官は「方面軍はイラワジ河畔で連合軍を邀撃すべく、強力にイラワジ会戦を指導したが、その強気の作戦指導も第一線兵団の実情に合わず、戦局は急速に悪化した。そしてメイクテーラの失陥によって最後の止めが刺された」と総括している。
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