会戦後
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「ヒュダスペス河畔の戦い」の記事における「会戦後」の解説
なお、ヒュダスペス河畔の戦いを記念してアレクサンドロスは2つの町を作った。1つはアレクサンドロスの軍馬で、この戦いで死亡したブーケファラスに因んで、「アレキサンドリア・ブーケファリア」(en)、もう1つは勝利の女神ニケに因んで「アレキサンドリア・ニカイア」(en)と命名した。アレクサンドロスはヒュダスペス河畔での勝利に続いて、更なる進軍を目指したものの、先のインド軍が「騎兵80,000、歩兵200,000、戦車8,000台、戦象6,000頭」を用意して待ち構えていると伝えられたことや、アレクサンドロス軍の損害が大きかったこと、兵士が望郷の念に駆られたこと等の理由によって、マケドニアおよびギリシア出身の兵士はそれ以上進軍しないよう懇願した。アレクサンドロスは兵士らを説得したが、結局は兵士らの意見を汲んで、バビロンへの帰路に着くこととなった。
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会戦後
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カエサルは、なおも抵抗するムンダに対する包囲戦の指揮官としてファビウスを残し、自身はヒスパニア平定に向かった。コルドバは降伏して殆どが武装した元奴隷からなる市内の兵士は全員が処刑され、コルドバは巨額の賠償金を課された。ムンダは暫く持ち堪えたものの、14,000人の奴隷を供出して降伏した。 小ポンペイウスは逃亡中にカエサル軍に捕捉されて処刑され、プブリウス・アッティウス・ウァルス(Publius Attius Varus)は戦死した。セクストゥスは大西洋岸まで落ち延びていったものの、カエサルの権力に抗しうるだけの軍勢はもはや持たなかった。ムンダの戦いでの勝利を以てローマ内戦は事実上終了、カエサルはムンダ戦勝の凱旋式をローマ市で挙行した。この凱旋式でカエサルはマルクス・アントニウスと同じ車に乗り、その後ろにデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスとトゥリヌスが随伴した。 終身独裁官として並ぶ者の無い絶対的な権力を手中に収め、人生の絶頂を迎えたカエサルであったが、ムンダの戦いから約1年後の紀元前44年3月15日、共和主義者によって暗殺された。
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