第2中間期に関する史料
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 09:34 UTC 版)
「エジプト第2中間期」の記事における「第2中間期に関する史料」の解説
動乱の時代に付き物であるが、第2中間期の歴史を伝える史料は乏しい。第17王朝については、この王朝によってエジプトが統一したこともあり比較的記録が多い。とりわけ重要な記録は、対ヒクソス戦争を始めたセケンエンラー王に関する後世の説話『アポフィスとセケンエンラーの争い』や、カーメス王の戦勝記念碑、水軍の船長であった「イバナの息子イアフメス」の墓に記された伝記などで、視点が第17王朝側に偏っているものの、対ヒクソス戦争の具体的な経過を知るためには必ず参照されるものである。また、第20王朝時代に記録された『アポット・パピルス』という文書も貴重である。これは第20王朝時代に実施された王墓の見回り調査記録であり、第17王朝のアンテフ5世からカーメス王にいたるまでの6王墓に関する記述がある。このパピルスの記事は現代の学者が王墓の所有者を特定するのに非常に役立った他、既に原型をとどめていないこれらの王墓が、元来は小規模なピラミッド状の構造を持っていたことを明らかにしている。 一方でヒクソス(第15王朝)に関する同時代の文書史料はほとんど残されていない。これは彼らが直接支配したのがナイル川三角州の限られた地方だけであったことも原因であるが、それ以上に異民族によるエジプト支配が屈辱的なものと見なされて、エジプト統一がなるやヒクソスに関連した記念物の多くが破壊されてしまったことが大きな理由である。後世にヒクソスについて書かれた記録はいずれも著しい偏見と敵意に満ちており、信憑性に問題があるものが多い。考古学的にはヒクソスの拠点アヴァリスなどの遺跡が残されており、それらから発見された数々の小規模遺物が貴重な情報を提供している。特にこの時代に特徴的な遺物がスカラベである。これには王名が付されているものも多く第15王朝の支配領域のほか、周辺諸地域の遺跡からも発見されており、ヒクソス王の名を現在に伝えている。また、テル・アル=ヤフーディア式土器と呼ばれるシリア風の土器の分布状況が注目される。テル・アル=ヤフーディア(ユダヤ人の丘)式という呼称は、このタイプの土器が最初に発見された場所にちなむが、その後の調査の結果、このタイプの土器は中王国時代末期頃から登場し始めることがわかった。更に、当初は主に北シリアで製作されたものが広く普及していたが、次第に生産拠点が下エジプトの東部に移動していった。この事実は、「ヒクソス」支配下において拠点となった下エジプト東部の生産力が増大したことを示すとともに、土器を作る職人が北シリア地方からエジプトへ移動した可能性をも示している。 ヒクソス時代には以前にもまして対外貿易が活発化したらしく、ヒクソスにまつわる小規模遺物はクレタ島やキプロス島、メソポタミア、アナトリア半島などからも見つかっている。とりわけアヴァリスの遺跡からクレタ様式の壁画断片が見つかったことは、ヒクソスとクレタ文化圏の関わりを示す興味深い事実である。
※この「第2中間期に関する史料」の解説は、「エジプト第2中間期」の解説の一部です。
「第2中間期に関する史料」を含む「エジプト第2中間期」の記事については、「エジプト第2中間期」の概要を参照ください。
- 第2中間期に関する史料のページへのリンク