エジプトにおける海の民の襲撃
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「前1200年のカタストロフ」の記事における「エジプトにおける海の民の襲撃」の解説
エジプト第19王朝末期、エジプトにはマシュワシュ族 (en) 、リブ族と呼ばれる人々が定住しつつあった。彼らはリビュアのキュレネからの移民であったが、エジプトの支配の及ばない地域であった。当時の王、ラムセス2世はこれを警戒して砦を築くなどの対策を採っていたが、マシュワシュ族などは商業活動でエジプトと関係していたため、さほど問題は生じておらず、ラムセス2世がヒッタイトと激戦を交わしたカデシュの戦いの際には傭兵として後に『海の民』と呼ばれるシェルデン人 (en) も参加している。 しかし、メルエンプタハ王が即位すると風向きが変わった。「イスラエル石碑(英語版)」によるとエジプトで大規模な飢饉が発生したことで、メルエンプタハはリビュア人らを追い返し、1万人近くを切り殺した。さらに非リビュア系のシェルデン、シェケレシュ、トゥレシュ (en) 、ルッキ (en) らの部族も侵入を開始したが、これら移民らの侵入は第20王朝のラムセス3世によってからくも撃退された。 しかし、ラムセス3世の治世、さらなる問題が生じた。この問題はリビュアなどの西側ではなくヒッタイト、シリアなど東側から生じた。これがいわゆる「海の民」による襲撃であった。ただし、この「海の民」は一部の部族のことではなく、少数民族が集まって部族連合を組織したものであったが、彼らはラムセス3世によって撃退された。これらについてロバート・モアコット (en) によれば全ての部族がリビュアと関係しており、さらに少人数であったとしており、これらはリビュアに雇われた傭兵隊であった可能性を指摘している。 さらに「海の民」らの侵入はエジプトに留まらず、シリアの諸都市、ウガリット、エマルも破壊された。そしてこの中でもパレスチナには「海の民」の一派であるペリシテ人らが定住することになった。旧約聖書上では否定的に描かれた彼らは実際には優れた都市建築者で鉄器の製造者であり、移住先に先進的物質文化が持ち込まれた。
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