エジプトとヒッタイトの戦争
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「エジプト第19王朝」の記事における「エジプトとヒッタイトの戦争」の解説
セティ1世の息子で、その治世晩年に共同統治者として政治の舞台に登場するのがラムセス2世(前1279年 - 前1212年)である。ラムセス2世には兄がいたが早くに死亡しており、幼い頃より後継者として育てられた。セティ1世の死後王位を継承したラムセス2世は、エジプト史上最大の建築活動を行った王であり、父が中途でやり残したいくつかの神殿の建設を引き継ぎ、また全国土に渡って大規模建築を残している。 ラムセス2世の治世初期は、父王時代と同じく対外遠征が熱心に行われていた。これまでと同様にシリア・パレスチナ方面は最も注意が向けられた地方であった。シリアで勢力を拡張するヒッタイトに対するために、かつてヒクソス(第15王朝)が拠点を置いた下エジプト東部の都市アヴァリスを元に、ペル・ラムセス(ラムセス市)を建設し、アジア方面への遠征のための軍事拠点とした。そして数次にわたるアジア遠征を行い、シリア地方に対する支配権回復を目指した。 取り分け有名なのが第2回のアジア遠征である。当時エジプトとヒッタイトの勢力争いの最前線となっていたのが北シリアのアムル王国であった。セティ1世の時代の一時的な征服の後、結局アムル王国は再びヒッタイトの支配下に入ってしまっていた。しかしアムル王ベンテシナはヒッタイトの支配を快くは思っておらず、ラムセス2世が海沿いにシリア地方へ2万あまりの軍を率いて進軍すると、公然とヒッタイトに反抗しはじめた。ラムセス2世としてはベンテシナの反ヒッタイト活動を支援することで北シリアの支配権を回復することができると踏んでいた。 当時のヒッタイト王ムワタリ2世は、反逆者ベンテシナを打倒しエジプトの北シリアに対する要求を跳ね除けるため、ヒッタイトの宗主権下にあった北シリアの諸王国、ハラブ(アレッポ)、ウガリト、カデシュなどの兵力を動員してエジプト軍を迎撃すべくカデシュに展開した。ラムセス2世はヒッタイト側が行った情報操作の罠に陥り、進軍した先で敵軍に包囲されたものの彼自身の勇敢さとエジプト軍の奮戦のために敗北を免れた。(カデシュの戦い) この戦いをエジプト側の記録は大勝利と記すが、実際には戦場においては痛み分けという程度の戦果であり、領土的には北シリアをヒッタイトに抑えられたままで、その奪回はならなかった。戦後間もなくエジプト側についたアムル王ベンテシナが廃されている。 この後もラムセス2世はアジア遠征を繰り返したが、大勢は変わらず北シリアに対する支配権回復は終に達成されることがなかった。最終的にラムセス2世の治世第21年にエジプトとヒッタイトの間には平和同盟条約が結ばれて、エジプトとヒッタイトの長きに渡る戦争に終止符が打たれた。これは条文が残る平和条約としては世界最古の条約である。この条約によってエジプト王ラムセス2世と、ヒッタイト王ハットゥシリ3世は領土不可侵、相互軍事援助、政治亡命者の引渡しを約し、ハットゥシリ3世の娘がラムセス2世の後宮に輿入れした。 この和平の背景にあったのが、ヒッタイトの東方で勢力を増すアッシリアの存在であった。アッシリアは前15世紀にはミタンニの覇権の下にあったが、前14世紀のアッシュール・ウバリト1世の時代にはエジプト第18王朝に対し対等の立場を主張するような外交書簡を送るほど勢力を拡張し、この時代の王アダド・ニラリ1世やシャルマネセル1世は旧ミタンニ領を併呑し、ヒッタイトと敵対するようになっていたのであった。
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