エジプトでの活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/03 00:17 UTC 版)
「オギュスト・マリエット」の記事における「エジプトでの活動」の解説
1849年にはその努力が認められ、ルーヴル美術館のエジプト考古部にポストを得、また1850年には官費で念願のエジプト出張を命じられることになった。出張の目的はコプト語、シリア語、アラビア語、ゲエズ語などの文書を蒐集し美術館のコレクションとすることであったが、翌1851年に現地に到着したマリエットは、メンフィス近郊サッカラにおいてセラピス神殿を発見するなど、むしろ発掘作業に没頭することになる。彼は結局、当初予定を大きく超える4年間をエジプトで過ごし、多くの発掘品をルーヴル美術館に持ち帰った。 パリで収集品の整理を終えた後マリエットは1857年に再びエジプトに赴く。1858年には彼は「ベイ」、また後の1879年には「パシャ」の称号を総督イスマーイール・パシャから得るなど、エジプト支配層からの信頼も篤く、1858年から創設されたエジプト考古局の初代長官に就任している。マリエットは、再び発掘活動を推進、最盛期には3,000人の作業員を使い、アスワンから地中海沿岸まで延べ35か所の発掘地点で作業を行ったという。マリエットはこの頃からは発掘品をエジプト外に持ち出すことに否定的な考えを持つようになる。スエズ運河の掘進を行ったフェルディナン・レセップスの経済的支援を受け、1863年にはカイロのブラークに考古博物館を設立、自ら館長となり、またそこに居住した。
※この「エジプトでの活動」の解説は、「オギュスト・マリエット」の解説の一部です。
「エジプトでの活動」を含む「オギュスト・マリエット」の記事については、「オギュスト・マリエット」の概要を参照ください。
- エジプトでの活動のページへのリンク