エジプトでの作戦(1517年)
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「オスマン・マムルーク戦争 (1516年-1517年)」の記事における「エジプトでの作戦(1517年)」の解説
マムルーク朝スルタンとしてのガウリーの後継者、 アシュラフ・トゥーマーンバーイは社会の様々な階層やベドウィンから兵士を必死に徴募し、さらにある程度の量の大砲と火器を彼の軍隊に装備させようとした。しかし、土壇場のことであり、できることは限られていた 。 最後に、カイロの玄関口で、オスマン帝国の司令官ハディム・シナン・パシャが命を落としたリダニヤの戦い(1月24日)が起きた 。 この戦いでは、セリム1世とトゥーマーンバーイが直接対峙した。オスマン軍はマムルーク軍の後方から攻撃を仕掛けたため、トゥーマーンバーイによって配備された銃器と大砲(旧式なため、重く大きく戦場での方向転換が難しい)はほとんど役に立たなかった。 この作戦は、約100隻の船からなるオスマン艦隊によって支援され、南進する軍はそこから補給を受けられた 。 数日後、オスマン帝国はカイロを占領して略奪し 、カリフのムタワッキル3世を捕らえた 。トゥマンベイはギザにて部隊を再編成したが、そこで最終的に捕らえられ、カイロの門に絞首刑にされた 。 その結果、 メッカの太守(シャリフ)もオスマン帝国に従い、聖地メッカとメディナもオスマン帝国の支配下に入った 。オスマン帝国の勢力は紅海南部まで拡大したが、イエメンの支配は部分的かつ飛び飛びであった 。
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