エジプトでの端緒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 15:04 UTC 版)
紀元前2700年頃の古代エジプト人は、自身の言語の子音ひとつひとつを表せる22の文字をつくり出していた。そしてこれらは、紀元前23世紀には語頭や語末の母音をも表せるようになっていたらしい。これらの文字を、表語文字の読みを助けたり、文法的な屈折を表現するのに用いたほか、後には借用語や異邦の名前を音写するのにも用いた。この表記体系は音素文字の性格を帯びていたわけだが、音素文字だけで表記することはなかった。最初の独立した音素文字体系は、紀元前2000年前後にエジプト中部のセム人労働者がつくり出していたと考えられる。5世紀にわたってこれは北方へとひろまり、世界中のさまざまな音素文字がここから生じた。また、こうして生まれた文字体系のいずれかに影響を受けて生じたものもある。ただしメロエ文字は例外であるかもしれない。これは紀元前3世紀にヌビアのヒエログリフがエジプト南部で適応を遂げたものである。[要出典] エジプト人は、ピクトグラムを、頭音法によってそれぞれの文字の表す語の最初の音を表すものとして用いた。このことが、音素文字の発展の第一歩となった。ただし、エジプト人達は、そのような文字を頭音による子音文字体系としてだけでなく、表意的あるいは音節的な用途にも用いていたので、この段階ではまだ音素文字が誕生していたとは言えない。しかし、ここでは、エジプト人の頭音法の原理が原シナイ文字や原カナン文字の碑文に影響を与えていると考えている。
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