エジプトからの返還要求
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 04:10 UTC 版)
「ネフェルティティの胸像」の記事における「エジプトからの返還要求」の解説
1924年にベルリンで『ネフェルティティの胸像』が公開されて以来、エジプト政府は胸像の返還要求を続けている。1925年に胸像を返還しない限りエジプトでのドイツの発掘を禁止すると警告した。1929年にはエジプトから『ネフェルティティの胸像』と他の遺物との交換の申し出があったが、ドイツは応じなかった。1950年代にもエジプトは交渉を試みたが、ドイツからの反応はなかった。ドイツは胸像の返還を強く拒み続けていたが、1933年に当時ナチス・ドイツの航空大臣だったヘルマン・ゲーリングが政治的思惑からエジプト王ファールーク1世への胸像の返還を検討したことがある。しかしアドルフ・ヒトラーはこの考えに反対し、エジプト政府に対して『ネフェルティティの胸像』のために新しくエジプト博物館を建設すると伝え、「この素晴らしい胸像は博物館中央の玉座に置く。女王の頭を放棄することは決してありえない」と語った。 大戦後、胸像がアメリカ軍の保護下にあったとき、エジプトはアメリカに胸像の引渡しを求めている。しかしアメリカは、エジプトは新設されるドイツの関連機関と交渉すべきだとして、引渡しを拒否した。1989年にエジプト大統領ホスニー・ムバーラクはベルリンでこの胸像を見たときに、この胸像は「エジプトにとって最高の駐独大使だ」と語っている。 エジプト考古最高評議会長のザヒ・ハワス博士は、『ネフェルティティの胸像』はエジプトが所有権を持っており、過去に不法に持ち出されたものである以上返還されなければならないとしている。ハワスは、1913年に発見されたときにエジプト当局が不正な方法で胸像を取り上げられたと考えており、ドイツに対して法的に正当な手段で胸像を持ち去ったというのであれば、それを立証するよう要求している。クルト G.ジーアは「考古学的文化財は原産国が「家」であり、その国で保存されるべきだ」と、別の観点からエジプトに返還すべきだと指摘した。2003年にも胸像の返還騒動があり、2005年にはハワスがユネスコに、胸像返還問題に介入するよう求めている。 2007年ハワスは、もし胸像がエジプトに貸与されないのであればドイツではエジプト考古学に関する博覧会を開催させないと通告したが、効果はなかった。また、ドイツの博物館への展示品貸与をやめるよう世界に呼びかけ、「学術的戦争 (scientific war)」の開始を求めた。ハワスは、2012年にギザの三大ピラミッドのそばに2012年に新設される大エジプト博物館開設記念として『ネフェルティティの胸像』を貸与してくれるようドイツ政府に要望している。同時に「ネフェルティティの旅 (Nofretete geht auf Reisen)」と呼ばれる胸像の巡回キャンペーンが、ハンブルクに拠点を置く文化団体 CulturCooperation によってはじめられた。この団体は「本来の所有者へ戻そう」の文字とともに『ネフェルティティの胸像』がデザインされた絵葉書を配布し、胸像をエジプトに貸与すべきではないかという公開質問状をドイツ文化大臣のベルント・ノイマンに送っている。2009年には新装された、もともと展示されていた新博物館へと戻されたが、ベルリンが『ネフェルティティの胸像』がある場所としてふさわしいのかどうかが議論となった。 ドイツ人の美術専門家たちは、1924年の文書に記載されているルートヴィヒ・ボルヒャルトとエジプト当局の間で交わされた協定を根拠に、ハワスからの抗議や要求に応じない態度を見せている。しかし前述したとおりボルヒャルトの取引は不正なものだったと非難されているのである。 また、ドイツ当局は胸像が壊れやすくて輸送に耐えられないとし、エジプトへの返還は実質的に不可能だとも主張している。タイムズは胸像をエジプトに貸与すると、永久に戻ってこないとドイツ政府が危惧しているのではないかと指摘した。 エジプト考古最高評議会は2011年1月、新博物館に対し、胸像の返還を要請する文書を送ったと発表した。
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