ペリー来航と開国、島津斉彬の琉球への内政干渉とその影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事における「ペリー来航と開国、島津斉彬の琉球への内政干渉とその影響」の解説
1853年5月、アメリカ海軍のマシュー・ペリーが上海から那覇港に来航し開港を要求した。その後ペリーは日本へ向かい、幕府に開港を要求した。翌1854年もペリーは日本への往復時に琉球を訪れ、日本で日米和親条約を締結した帰途に琉米修好条約を締結した。なお日米和親条約では函館、下田の他に那覇も開港地の候補に挙がったものの、江戸幕府側には琉球の港を開港させる権限はないと説明され、断念している。このペリーの琉球来航時、ベッテルハイムはペリーの道案内役を務めた。 そして1855年10月には琉仏修好条約が締結される。琉米修好条約はペリー率いる艦隊の軍事的圧力下にあったとはいえ、交渉そのものは比較的穏やかに進められた。しかし琉仏修好条約は琉球側の拒否によって交渉が難航し、最終的にフランス側は武装兵士を配置し武力で威嚇して調印を強要した。これは琉米修好条約には無かった、フランス人に土地、家屋、船舶の貸与の許可と商品購入の自由を認めた点が琉球側の激しい拒絶に遭ったためである。これらの条項はフランス人の琉球滞在を前提にしており、これは琉球の国法に抵触する上に清側への報告が必要であると判断された。結局条約締結を強要された琉球は特命使の派遣を決定し、清に事態の報告と介入を要請することになった。 ところが特命使の派遣は中止される。これは島津斉彬の反対が明らかになったためであった。斉彬は1856年3月に琉球側からフランスと結んだ琉仏修好条約についての報告を受けた際に特に問題は無いとの判断を示していた。そして琉球側からのフランス人を退去させたいとの申し立ても不都合であると却下していた。フランスとの本格的な貿易開始を狙っていた斉彬は特命使の派遣に反対したのである。結局琉球側は特命使の派遣は断念し、通常の進貢使が事態の報告と介入を要請することになった。 1857年10月、島津斉彬は側近の市来四郎を琉球に密使として派遣した。斉彬の命令は琉球側にとって驚くべき内容であった。フランスとの本格的貿易の開始、清との貿易拡大、蒸気船と武器の購入、イギリス、フランス、アメリカへの留学生派遣等、本格的な貿易開始かつ開国案であった。この斉彬の命令は琉球王府内に激しい動揺を招き、清に対薩摩藩を始め日本との関係を隠蔽してきた従来政策が破綻するとしていったんは拒否するものの、結局は承諾を余儀なくされる。後述のように琉球は福建当局から銅の調達を求められていた。銅を産出しない琉球としてはどうしても薩摩側の協力が不可欠であったという事情も重なり、斉彬の命令を拒み切れなかった。続いて薩摩側の意向に従順と見られる人物が急速に昇進した。市来からの報告を受けた斉彬は1858年1月、琉球王国の名でフランスから軍艦と銃器を購入するように命じた。翌2月からフランス側との秘密交渉が開始されたが難航し、7月には軍艦購入の契約締結まで漕ぎつけた。そして斉彬はこれまで避けてきた琉球王府内の人事に直接介入を断行し、自らの構想に抵抗しそうな高官を罷免して逆に手足として動くような人材が抜擢された。 しかしここで事態が急展開する。島津斉彬が急死したのである。甥の島津忠義が家督を継ぎ、実権は斉彬の異母弟で忠義の父である島津久光が握った。秘密裏に進められてきたフランスからの軍艦等の購入計画は破棄され、違約金を支払うことで契約は取り消された。しかし王府の人事まで介入した斉彬の政策は激しい反動を琉球王国にもたらした。1859年には牧志恩河事件が発生し、親薩摩派と見られた人物が失脚、そして逮捕投獄された。その後も事件の後処理を巡って琉球王府内は厳罰派と法に基づく法治主義派に分裂して深い亀裂を生じ、国王の廃立が噂される事態にまで陥った。 なお琉球側としてはやむを得ない条約締結であったが、琉米修好条約や琉仏修好条約を結んだということは、欧米諸国は琉球をある程度の外交権を持つ存在として認めていたことを示している。琉球国王は清の皇帝から冊封を受け、外交上からも国王として国際的に認知されていた。ただ日本側としては琉球の欧米諸国との条約締結を黙認したものの、それによって琉球が日本に従属する実は失われないと解釈していた。ペリー来航以降の幕末期、日本側は清よりも日本によって実効支配されてきたことを欧米諸国に対してアピールするようになる。この流れは幕末から明治維新にかけてより強まっていく。
※この「ペリー来航と開国、島津斉彬の琉球への内政干渉とその影響」の解説は、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の解説の一部です。
「ペリー来航と開国、島津斉彬の琉球への内政干渉とその影響」を含む「琉球の朝貢と冊封の歴史」の記事については、「琉球の朝貢と冊封の歴史」の概要を参照ください。
- ペリー来航と開国、島津斉彬の琉球への内政干渉とその影響のページへのリンク