平野長泰
平野長泰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/10 01:44 UTC 版)
平野 長泰(ひらの ながやす)は、安土桃山時代の武将、江戸時代前期の旗本。賤ヶ岳の七本槍の1人。
注釈
- ^ 五郎左衛門。加藤清正の家臣[1]。6千石。子の源太左衛門は加藤家を致仕したのち浪人し、長泰の推薦により豊前小倉藩細川家家臣となった。雇用の際に細川家は加藤家との仲を考慮して戸惑っていが、細川家はのちに加藤家旧領の肥後国に転封となり、源太左衛門は「肥後案内」できるものとして雇用される。1千石[要出典]。
- ^ 甚左衛門。豊臣秀頼に仕え、大坂城落城の際に討ち死[1]。子の九郎右衛門長之も大坂城に籠るも生存し、のち肥後国熊本藩細川家に仕え小姓頭、大目付、武功吟味役などを勤めた[要出典]。
- ^ 九左衛門。織田信忠のち豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いでも兄に従って戦功があった。会津征伐に従い、関ヶ原の戦いでは福島正則の陣に属して戦功を挙げた。大坂の陣には徳川方・永井直勝隊に加わり、天王寺口の戦いで奮闘。旗本5百石。享年91[2]。
- ^ 弥次右衛門。肥後国熊本藩細川家に仕える[1]。5千石[要出典]。
- ^ 豊臣秀頼家臣・真野与次兵衛某の養女。
- ^ 西本願寺の僧。刑部。下間仲玄の子。
- ^ 北条時行の遺児時満の次男が横井時任を名乗り、この時任の次男の子孫が平野氏である、とされる。
- ^ 萬久は法名。諱は「賢長」ともいう[3]。
- ^ 萬久の弟に平野新左衛門(宣政)という人物がおり、この人物は本能寺の変で二条新御所(二条御新造)で討ち死にした。また同じ時に死んだ平野勘右衛門とは、長治(甚右衛門)であると推定する説もあるが、長治には山崎の戦いの後の10月に姫路城留守居を命じられた記録があるなどその後の生存が確認されており、慶長11年(1607年)に没した。
- ^ 駿府城に出仕するために安倍郡安西に宅地を与えられた家臣のことをさす。
出典
[続きの解説]
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