議会との全面戦争
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「チャールズ1世 (イングランド王)」の記事における「議会との全面戦争」の解説
第一次内戦は当初、チャールズ1世の甥に当たるカンバーランド公ルパートとニューカッスル伯ウィリアム・キャヴェンディッシュの働きで10月のエッジヒルの戦いは引き分け。翌1643年6月のアドウォルトン・ムーアの戦いで勝利し、互角あるいは王党派が優位であったが、9月25日に議会派と盟約派が厳粛な同盟と契約を締結。スコットランドが議会派に加勢し戦況は議会派に傾き始め、オリバー・クロムウェル率いる鉄騎隊の活躍により、1644年7月のマーストン・ムーアの戦いなどで王党派が各地で打ち破られた。1645年6月のネイズビーの戦いで、チャールズ1世・ルパート率いる国王軍はトーマス・フェアファクスを司令官、クロムウェルを副司令官とするニューモデル軍に決定的な大敗を喫し、拠点を次々と議会派に奪われ、翌1646年4月にチャールズ1世は本拠地オックスフォードから逃亡。5月にニューアークで駐屯していたスコットランド軍に降伏した。第一次内戦は王党派の敗北になり、1647年1月にチャールズ1世もスコットランド軍からイングランド議会へ引き渡され囚われの身となった。 全面戦争になったとはいえ、王党派の中には議会派との和睦を諦めない穏健派の人々がいて、エドワード・ハイド(後の初代クラレンドン伯爵)と第2代フォークランド子爵ルーシャス・ケアリーがしばしばチャールズ1世に和睦を進言したが、国王は王妃ヘンリエッタ・マリアと急進派の意見を採用して和睦を拒否、穏健派を遠ざけた。また外国へ渡り王家の宝物売却などで軍資金を集めた王妃からの支援を受け取ったが、内戦が激化すると1644年に王妃をフランスへ亡命させ、翌1645年3月に長男のチャールズ王太子(後のチャールズ2世)をハイドに託し、一旦西部へ移動させた後1646年にやはりフランスへ亡命させた。 内戦の最中、チャールズ1世は反乱で背かれたスコットランドとアイルランドから援軍を求め交渉していた。スコットランドを王党派で平定すべく盟約派から王党派に離反したモントローズ伯を侯爵に昇叙、スコットランド総督に任じて帰国させた。モントローズ侯は期待に応え、1644年8月にアイルランド貴族のアントリム伯ランダル・マクドネル(英語版)と親戚のアラスデア・マッコーラ(英語版)と共にスコットランドで挙兵(スコットランド内戦(英語版))。1645年にはインヴァロッヒーの戦い(2月2日)・キルシスの戦い(8月15日)で連勝しアーガイル侯ら盟約派を追い落として平定に迫ったが、盟約派の反撃に遭い9月13日のフィリップホフの戦いで敗れ、スコットランド平定はならなかった。 アイルランドでは駐屯軍司令官でアイルランド総督のオーモンド侯ジェームズ・バトラーに反乱勢力のアイルランド・カトリック同盟との交渉を任せ、和睦と援軍派遣を期待していたが、宗教の違いとそれぞれの無理な要求で交渉は難航。1643年9月15日に何とか休戦が成立した。ところが続く和睦交渉は暗礁に乗り上げ、互いの要求を棚上げにして和睦条約が調印されたのは1646年3月28日と第一次内戦が終わる寸前であり、援軍を求めるにはあまりにも遅過ぎた。しかもこの間にチャールズ1世は、オーモンド侯の頭越しにアイルランドへ密使を送ることを計画。密使として派遣され1645年7月にアイルランドに着いた寵臣のグラモーガン伯エドワード・サマセットは、オーモンド侯に協力するふりをしてアイルランド同盟と独自に接触した。 更に、11月にアイルランドへ派遣されたローマ教皇インノケンティウス10世の特使、ジョヴァンニ・バッティスタ・リヌチーニ(英語版)が和睦条約に反対して聖職者や軍人達を動かし、グラモーガン伯もリヌチーニと結びつき、アイルランド人に対する土地返還とカトリック寛容を引き換えにした軍事援助の秘密条約実施を申し出た。だがリヌチーニはどちらの条約にも反対、グラモーガン伯は秘密交渉の発覚で逮捕され、チャールズ1世はグラモーガン伯との関与を否定したが、アイルランド同盟から不信を抱かれ、オーモンド侯の和睦条約もリヌチーニに扇動された反対派により破棄され、もはやアイルランドからも援軍を期待出来なくなった。
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