議会との度重なる対立
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「ニューモデル軍」の記事における「議会との度重なる対立」の解説
共和国の敵対勢力を排除するため、クロムウェルは5月に平等派を弾圧、8月にニューモデル軍を率いてアイルランド侵略を敢行、アイルランド・カトリック同盟および王党派を各地で撃破した。この時軍はアイルランドにいるカトリック勢力への憎悪に駆られて悪名高い住民虐殺を繰り返し、現在まで続くアイルランド問題の発端を作った。また侵略は兵士の未払い給料を奪った土地かその証券で弁済する側面もあり、土地売買が頻繁に行われたが、貧しい兵士達は安値で手早く土地を売るしかなくなり、土地は富裕層に渡り兵士の貧困は続くという悪循環に陥った。 1650年5月、クロムウェルは途中で遠征を切り上げ帰国、7月からスコットランド遠征(第三次イングランド内戦)に出向いた。司令官フェアファクスはスコットランドとの戦争を拒否・辞職したためクロムウェルが司令官となり、彼の指揮下でニューモデル軍は9月3日のダンバーの戦い、翌1651年9月3日のウスターの戦いで連勝、チャールズ1世の息子チャールズ2世を亡命へ追いやり内戦を終結させた。 だが軍と議会の対立は続き、議会は第一次英蘭戦争で財政が傾いたため軍の給料減額と軍縮を進め、反発した軍幹部ランバートとトマス・ハリソンはクロムウェルに解散を詰め寄り、1653年4月にランプ議会は軍と同調したクロムウェルとハリソンのクーデターで解散された。軍の士官会議は7月にベアボーンズ議会を開会させたが、この議会も軍への支給減額を図ったため12月に軍の圧力で解散され、ランバートが中心とした士官会議は『統治章典』を公布、軍を支持基盤に置いたクロムウェルを護国卿とした政権を発足させた。 こうした状況で、軍に再び動揺が現れた。兵士がバプテストとクエーカーの信者になり、占領地や軍の統制を乱したのである。バプテストは軍幹部でアイルランド総督になったチャールズ・フリートウッドの下でカトリック弾圧政策を行い占領統治を混乱させ、クエーカーはスコットランドとアイルランドで軍内部に信者を増やし、非暴力主義を実践して軍に支障をきたした。前者はフリートウッドと交代したクロムウェルの息子ヘンリー・クロムウェルに、後者はスコットランド軍総司令官ジョージ・マンクに排斥された。 クロムウェルを護国卿に就任した後もしばしば軍と議会の対立が発生した。1654年9月に召集された第一議会は統治章典の項目変更と軍統帥権を議会固有の権限とするよう主張、ランバートら軍幹部が属する国務会議とクロムウェルは反対し、妥協出来ないまま1655年1月に議会は解散された。8月の軍政監設置で軍事独裁が強まったが長く続かず、1656年9月に第二議会が召集されると軍事独裁が非難され軍政監は廃止、クロムウェルが次第に体制安定を求め1657年に議会が彼の国王即位を提案した際、軍は反対したためクロムウェルは王にはならなかったが、事実上王政に近い体制を作る『謙虚な請願と勧告』が公布された。それでも体制安定はならず1658年2月に議会は解散、9月にクロムウェルも死去した。軍はクロムウェルの支持勢力であり続けたが、この頃になるとクロムウェルに批判的になり反対派に移ったハリソンなど軍幹部が排除され、後から軍に入った幹部は非政治的な職業軍人で占められたため、軍はクロムウェルの統制が強化された代わりに没個性的な職業軍人集団と化した。
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