朝鮮政府の外交顧問に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 07:49 UTC 版)
「パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ」の記事における「朝鮮政府の外交顧問に」の解説
「露朝密約事件」も参照 1882年7月に李氏朝鮮で起こった壬午軍乱は、清国軍による興宣大院君(国王高宗)の天津への連行・拉致で幕を閉じ、10月4日(朝鮮暦9月12日)、清国と朝鮮は天津において中朝商民水陸貿易章程を締結した。清国側は北洋大臣李鴻章のほか周馥と馬建忠が、朝鮮側は兵曹判書の趙寧夏と金宏集、魚允中がこれに署名した。天津をおとずれていた趙寧夏・金宏集は『善後六策』を李鴻章に提出して軍乱後の政策について李鴻章の指導を仰ぐ一方、朝鮮政府が外交顧問として招聘すべき人材の推薦を依頼した。李鴻章が推薦したのはメレンドルフと馬建忠の兄馬建常(元神戸・大阪領事)であった。メレンドルフと馬建常は、この年の12月に帰国した趙寧夏とともに漢城(後のソウル特別市)入りし、12月27日、高宗に謁見した。メレンドルフは、朝鮮国王が召見した最初のヨーロッパ人となった。 メレンドルフは速やかに高宗と意を通ずるに十分な朝鮮語を身につけ、まもなく高宗の信頼を獲得した。高宗はメレンドルフを外務協弁(外務次官)に任じ、朝鮮海関(税関)の設立を委ねた。メレンドルフは中国・朝鮮風の「穆麟徳」(朝鮮語発音:モク・インドク、北京官話発音:ムー・リントー)を名乗り、すぐに朝鮮政府で大いに影響力のある人物となった。当時、朝鮮の税関は釜山、元山、仁川の3港に設けられたが、メレンドルフは閔氏政権の重鎮で閔妃の甥にあたる閔泳翊と謀って税関収入の一部を閔妃個人のために支出している。また、1883年、朝鮮の国庫の窮状を知ったメレンドルフは「当五銭」という悪貨の鋳造を朝鮮政府に勧め、これは漢城、江華島、平壌で大量に鋳造されたが、金玉均らの急進開化派(独立党)はこれに対し猛烈に反対し、その代案として日本からの借款の獲得をめざした。 メレンドルフは李鴻章や中国海関の総税務司ロバート・ハートの希望に反して朝鮮の独立を主張することを望んだ。彼は中国海関から朝鮮海関を可能な限り独立させたかった。メレンドルフは朝鮮半島に対する中国と日本の影響を均衡させるために、朝鮮がロシア帝国と同盟を組むことを唱えた。しかし、これはメレンドルフの独走とみなされて清国の警戒するところとなり、1885年、李鴻章は朝鮮政府にメレンドルフの罷免を強要した。旧5月、メレンドルフは協弁交渉通商事務・総税務司を解任された。1888年、高宗はメレンドルフの復職を試みたが、不成功に終わっている。
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