コリンズの計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/20 13:50 UTC 版)
「血の日曜日事件 (1920年)」の記事における「コリンズの計画」の解説
イギリス政府の諜報機関とイギリス軍情報部は、ダブリンにおいて1920年後半までにカイロ・ギャング(市内のグラフトン・ストリートにあったカイロ・カフェという喫茶店をひいきにしていたこと、第一次世界大戦中のエジプト・パレスチナ戦線に従軍していたためにこの名がつけられた)と呼ばれている組織を含め、大規模な諜報網を構築していた。IRAの参謀長であるMulcahyはこのスパイ網について「きわめて危険かつ巧妙に配置されたスパイ組織」だと述べている。 1919年にアイルランドの財務大臣に就任したマイケル・コリンズは、秘密裡にアイルランド共和同盟の指導者とIRAの情報局長も務めていた。諜報組織を放置しておくと首都におけるIRAが壊滅しかねないとして、1920年11月にコリンズはイギリスのスパイの暗殺を指令した。IRAではイギリスの秘密組織により独立派の指導者陣の暗殺が行われることになるだろうとも警戒していた。ディック・マッキーが計画立案の責任者に任命された。イギリスのスパイの住所は独立派に同情的なメイド、イギリス軍将校たちの不注意な会話の立ち聞き、RIC内部に存在したIRAの情報提供者などから入手された。スクワッドおよびIRAダブリン旅団のメンバーから構成される暗殺チームは、11月20日にダブリン市内8か所における20人のターゲットに関するブリーフィングを受けた。コリンズの計画では50人以上のイギリス軍将校とスパイの殺害を予定していたが、スパイである証拠が不足しているとする国防大臣のカハル・ブルハの主張によってその数は35に減らされた。
※この「コリンズの計画」の解説は、「血の日曜日事件 (1920年)」の解説の一部です。
「コリンズの計画」を含む「血の日曜日事件 (1920年)」の記事については、「血の日曜日事件 (1920年)」の概要を参照ください。
- コリンズの計画のページへのリンク