コリンス包囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/08 01:40 UTC 版)
詳細は「コリンスの包囲戦」を参照 シャイローの戦いが終わった後、グラントに2度めの危機が訪れたが、同時に将来のテネシー軍を予告するような複数の軍を使用した大規模な作戦も発動した。事前の計画に従って、グラントの上司に当たるハレック少将が、現場の指揮をとるためにピッツバーグ・ランディングに到着した。鉄道の中心であるコリンスに集結した南軍を攻撃するため、ハレックは100,000名以上の兵力からなる軍集団を組織した。ハレックの軍集団には、グラントのテネシー軍の他に、ビューエルのオハイオ軍、ジョン・ポープ少将のミシシッピ軍が含まれた。4月30日、ハレックは軍集団を3つの「翼」と予備部隊に分割した。左翼の指揮官はポープ、中央翼はビューエル、右翼はジョージ・ヘンリー・トーマス少将であり、予備部隊はマクラーナンドが指揮をとることとなった。グラントの第1師団と第3師団は予備とされたが、右翼はグラントの第2、第4、第5および第6師団に加え、オハイオ軍第1師団(トーマス自身が師団長)から構成されていた。言い換えると、ハレックはトーマスをオハイオ軍の師団長から、ほとんどがグラントのテネシー軍の師団で構成される右翼の指揮官に引き上げたこととなる。 ハレックはグラントをこの10万人の軍集団の「副司令官」に任命したが、同時にグラントが「テネシー軍」(右翼および予備部隊)の指揮権を持つことも明確に確認している。ハレックが何故グラントに影響を与えるこのような行動をとったかは不明である。グラントは当時シャイローでの不手際から強い社会的批判にさらされていが、やがて副司令官という地位は拘束されているに等しいと不満を申し立てている。彼の不満の中には、ハレックが組織上はグラントの指揮下にあるはずのトーマスと右翼部隊の各師団長に直接司令を出しているということが含まれていた。このグラントを当惑させるぎくしゃくした指揮系統のまま、ハレックの軍集団は5月一杯をかけて、前進するごとに塹壕で防御を固めてコリンスから20マイルの距離まで進出した。このコリンスの包囲戦は、南軍部隊が5月29日の夜から30日にかけて町を放棄して撤退したことで終了した。グラントは後に、ハレックはこの作戦で達成すべきことを全て失敗したと述べている。しかしながら、トーマスの右翼部隊で師団長を務めていたシャーマンは、この作戦はテネシー軍を含め、ハレックの部隊の実地訓練として重要であったとして「この作戦は、我々の部隊に防御作戦と哨戒行動を教え、屋外での生活に慣れさせるものであった。そしてコリンスに到達するまでに、私はこの大陸で最良の軍であると信じるようになった」と評価している。 コリンスが陥落した後、グラントは欲求不満のため軍を辞めようとしたが、シャーマンが説得して思い止まらせた。このときの経験が、後にシャーマンとの関係を親密なものとし、逆にトーマスとの関係を冷たいものとした。グラントとシャーマンの信頼関係は、後のテネシー軍の有効性に大いに貢献した。コリンス陥落後、ハレックは作戦に使用した軍集団を解散した。6月10日、ハレックはグラントにテネシー軍の直接指揮権を再び与えた。ビューエルはテネシー州チャタヌーガに向かい、トーマスとその師団はビューエルの軍に戻った。軍管区司令官のハレックはコリンスに残り、グラントは西テネシー小軍管区の司令部を新たに占領したテネシー州メンフィスに置いたが、軍は「ミシシッピとテネシーの州境の6つの鉄道に沿って引き伸ばされた」 。こうして、シャイロー戦いの前後に生じた危機を乗り越え、グラントは「彼の当然のような確固たる姿勢と部下を叱咤する攻撃性」を反映した「自分の理想の軍隊」にテネシー軍を作り上げていく地位に留まることとなった。
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