中国との外交とは? わかりやすく解説

中国との外交

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/03 02:02 UTC 版)

パトリック・ジェイ・ハーリー」の記事における「中国との外交」の解説

1944年8月ハーリールーズベルト大統領個人特使に任ぜられた。ハーリー中華民国訪問し蔣介石面会した大統領ハーリー対し次の指令与えた。 ここに、蔣介石大元帥対する私の個人代表として貴殿指名する貴殿は私に対して直接報告を行うこと。貴殿主要任務は、大元帥とスティルウェル将軍との間の、効率的かつ協和的な関係を働きかけることである。これは、大元帥指揮下にある中国軍隊対する、スティルウェル将軍指揮権行使目的したものである。なお貴殿には、場合に応じて追加任務与えことがある日本対す中国での軍事作戦は、スティルウェルと蔣介石個人的対立により、協力関係を築くことができず、不振終わった。スティルウェルは強烈な反共主義であり、蔣介石立場については理解していた。ハーリーは、中国戦域陸軍司令官について、スティルウェルからアルバート・ウェデマイヤー将軍交代することを支持したハーリーは、ジョン・スチュワート・サービスやジョン・ペイトン・デイヴィス、ジョン・カーター・ヴィンセントなどの国務省高官に対して自身活動阻害していると不満に感じていた。ハーリーは彼ら国務省高官に関して毛沢東掲げ共産主義について過度な共感持っているではないか思っていた。 1944年11月初め駐中国大使クラレンス・エドワード・ガウスが辞任すると、後任大使としてハーリー要請下った。だがハーリー当初次のように述べて就任辞退した。 かつて私は中国での活動要請受けたが、その任務それまで人生で最も嫌なものであった。私は蔣介石および南京国民政府に対して支援行った。だが国務省内のアメリカ的分子はそれを望まず、私に対す反発強めた。私はそう感じた11月17日ルーズベルト大統領ハーリー電報送り国家の重要問題であるとして駐中国大使への就任再度要請したハーリー不承不承に、その要請受理したハーリー国務省との関係は、良好なものではなかった。1945年2月ルーズベルト大統領イギリスウィンストン・チャーチルおよびソビエトヨシフ・スターリンヤルタ会談行った。この会談においてソビエトは、帝政ロシア期日露戦争失った中国での利権を再び取得するという密約取得したハーリーはこの密約について、中国における反共主義終わり始まりであると認識したハーリールーズベルト大統領死後後任ハリー・トルーマン大統領期待したハーリーは、ヤルタ会談犯した間違い大統領気付き状況修正してくれるという希望抱いた。だがその望みはかなうことはなかった。ハーリー1945年9月中国から引き揚げた。そして11月26日ハーリー大統領に、痛烈な言葉による辞任願を提出した。 私はキャリア官僚削減依頼したはずです――彼らは中国戦線におけるアメリカ政策反対していました。だが職業外交官であった彼らはワシントンへと戻され、私の上司として国務省中国部や極東部配置されました。また彼らキャリア官僚一部は、アジア戦域最高司令官として、私の上となりました。彼らはアメリカ政策反対し、いまなお共産主義帝国主義の側に付いているのです。

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