中国との外交
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「パトリック・ジェイ・ハーリー」の記事における「中国との外交」の解説
1944年8月、ハーリーはルーズベルト大統領の個人特使に任ぜられた。ハーリーは中華民国を訪問し、蔣介石と面会した。大統領はハーリーに対し、次の指令を与えた。 ここに、蔣介石大元帥に対する私の個人代表として貴殿を指名する。貴殿は私に対して、直接報告を行うこと。貴殿の主要任務は、大元帥とスティルウェル将軍との間の、効率的かつ協和的な関係を働きかけることである。これは、大元帥の指揮下にある中国の軍隊に対する、スティルウェル将軍の指揮権の行使を目的としたものである。なお貴殿には、場合に応じて追加任務を与えることがある。 日本に対する中国での軍事作戦は、スティルウェルと蔣介石の個人的対立により、協力関係を築くことができず、不振に終わった。スティルウェルは強烈な反共主義であり、蔣介石の立場については理解していた。ハーリーは、中国戦域の陸軍司令官について、スティルウェルからアルバート・ウェデマイヤー将軍に交代することを支持した。 ハーリーは、ジョン・スチュワート・サービスやジョン・ペイトン・デイヴィス、ジョン・カーター・ヴィンセントなどの国務省高官に対して、自身の活動を阻害していると不満に感じていた。ハーリーは彼ら国務省高官に関して、毛沢東の掲げる共産主義について過度な共感を持っているのではないかと思っていた。 1944年11月初め、駐中国大使クラレンス・エドワード・ガウスが辞任すると、後任の大使としてハーリーに要請が下った。だがハーリーは当初、次のように述べて就任を辞退した。 かつて私は中国での活動要請を受けたが、その任務はそれまでの人生で最も嫌なものであった。私は蔣介石および南京国民政府に対して支援を行った。だが国務省内の非アメリカ的分子はそれを望まず、私に対する反発を強めた。私はそう感じた。 11月17日、ルーズベルト大統領はハーリーへ電報を送り、国家の重要問題であるとして駐中国大使への就任を再度要請した。ハーリーは不承不承に、その要請を受理した。 ハーリーと国務省との関係は、良好なものではなかった。1945年2月、ルーズベルト大統領はイギリスのウィンストン・チャーチルおよびソビエトのヨシフ・スターリンとヤルタ会談を行った。この会談においてソビエトは、帝政ロシア期に日露戦争で失った中国での利権を再び取得するという密約を取得した。ハーリーはこの密約について、中国における反共主義の終わりの始まりであると認識した。 ハーリーはルーズベルト大統領の死後、後任のハリー・トルーマン大統領に期待した。ハーリーは、ヤルタ会談で犯した間違いに大統領が気付き、状況を修正してくれるという希望を抱いた。だがその望みはかなうことはなかった。ハーリーは1945年9月に中国から引き揚げた。そして11月26日、ハーリーは大統領に、痛烈な言葉による辞任願を提出した。 私はキャリア官僚の削減を依頼したはずです――彼らは中国戦線におけるアメリカの政策に反対していました。だが職業外交官であった彼らはワシントンへと戻され、私の上司として国務省中国部や極東部に配置されました。また彼らキャリア官僚の一部は、アジア戦域の最高司令官として、私の上司となりました。彼らはアメリカの政策に反対し、いまなお共産主義や帝国主義の側に付いているのです。
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