中国との最初の接触
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/02 04:06 UTC 版)
「フェルナン・ピレス・デ・アンドラーデ」の記事における「中国との最初の接触」の解説
船団はマラッカ海峡で1隻を失ったものの、途中で加わった船を含めて8隻の船が8月15日に珠江デルタに到達し、広東で絹や磁器を取引できるよう明当局と交渉した。アンドラーデが広東に向けて川を遡行する許可を求めている間、香山管轄下の南頭の明水軍司令官が河口でポルトガル船団を足止めした。しかしアンドラーデが許可を得ぬまま強行突破するといって脅してきたので、明の司令官は彼らを通すことにし、水先案内人を付けた。 広東の港に入ったポルトガル船団は、かつてポルトガル人がマラッカに入ってきたときに中国人商人が行ったのをまねて礼砲を放った。しかしそのせいで明当局はいっそう警戒を強めた。その裏には、ポルトガル人に追い出されたマラッカのスルターンが明宮廷に助けを求めている状況があった。これについてポルトガル側は、亡命したスルターンのもとで虐げられていた中国人商人を自分たちが救ったという説明をした。しかしこれも裏目に出て、広東の当局のポルトガル人に対する視線はさらに険悪なものになっていった。そもそも明は海禁政策をとっており、明宮廷が直接取り仕切る朝貢貿易以外の対外貿易はすべて禁じられていた。 ところが、より上級の広東布政使司は逆の方針をとった。ポルトガル人を温かく迎え、彼らに心地よい住居を与え、積み荷を岸に下ろすことを許したのである。一度アンドラーデが交易路を探索するために福建沿岸に船を派遣した際にはスパイ疑惑をかけられたが、彼はポルトガル人に傷つけられた地元民の救済を申し出て、相手に好感情を持たせることに成功した。また彼は福建のほかにも、マラッカにいたときにその美しさを伝え聞いていた琉球諸島に向けて、ジョルジ・デ・マスカレニャスという名の船長を探検に向かわせた。
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