中国とドイツの接近
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 17:20 UTC 版)
袁世凱の死後、中国を支配していた北京政府は崩壊し、政権を狙う軍閥同士で内戦が始まった。そのため、ドイツの兵器メーカーは、中国に武器と軍事支援を提供する商権の拡大を画策した。 広州の国民党政府もドイツの支援を求め、ドイツで教育を受けた朱家驊が1926年から1944年までのドイツとの交渉をほとんど一手に引き受けた。中国が外交相手にドイツを望んだのは、ドイツが技術力を持っていたという以外にもいくつかの理由があった。 イギリスなどの国々は未だ帝国主義的であり、中国国内の反帝国主義運動の主対象となっていたが、これに対してドイツは第一次世界大戦で世界各地の植民地を失い最早帝国主義的政策の推進を諦めていたため、中国人に対する受けがよかった。また、ソ連のように政治に介入し、共産主義者の勢力の伸張を図ろうとしなかったことも理由に挙げられる。 また、国民党の蔣介石は、ドイツが近年になって国内統一を果たしたことが、中国再統一の上で大いに参考になると考えていた。このようなことから、中国はドイツが中国の国際的地位の向上を遂げる上で重要な役割を果たすと見なしていた。
※この「中国とドイツの接近」の解説は、「中独合作」の解説の一部です。
「中国とドイツの接近」を含む「中独合作」の記事については、「中独合作」の概要を参照ください。
- 中国とドイツの接近のページへのリンク