中国との関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 02:15 UTC 版)
卒業後に北海道昆布会社に入社し上海支店に勤務したが、1894年(明治27年)に勃発した日清戦争の際には職を辞して陸軍の通訳官として従軍し、遼東半島や台湾へ赴いた。1895年(明治28年)、台湾総督府に勤務する海軍少佐の滝川具和と知り合い、1897年(明治30年)、滝川が清の首都北京にある日本大使館付の駐在武官に就任したことに伴って北京へと渡り、海軍省嘱託という身分で、滝川の依頼による調査活動および諜報活動に従事。その際に「田山良介」という偽名を名乗った。1898年(明治31年)に行われた戊戌の政変が守旧派の抵抗に遭い失敗に終わった後、滝川や平山周と共に政変の中心人物となった梁啓超や王照(中国語版)を救出して日本海軍の砲艦・大島に匿い、日本への亡命を手助けした。 1899年(明治32年)、日本へ帰国し東京府神田区三崎町に在住したが、そこへ中国人の革命家の孫文が訪れた。両者は初対面だったが、良政は孫文と意気投合し革命運動の援助を約束した。1900年(明治33年)、東亜同文会の井手三郎の依頼により、南京同文書院の教授兼幹事として再び清へと渡り、職務の傍ら孫文をはじめとした革命派や、平山や内田良平といった協力者たちと密に連絡を取り合い、武装蜂起に向けた準備を進めた。両江総督を務める劉坤一の暗殺計画を巡る対立により孫文から離反していく日本人協力者が現れる中で、良政は南京同文書院の職を辞して孫文の活動を支援し続けたという。
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