中国で終戦を迎える
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昭和13年(1938年)5月、上海派遣軍報道部から戦争記録画制作の依頼を受け、中村研一、小磯良平、江藤純平、柏原覚太郎、向井潤吉、南政善、鈴木栄二郎、脇田和とともに上海に赴き、7月までアスター・ハウス・ホテルに滞在する。それまでは画家自らが従軍を志願するのが普通だったが、叶わないことも多く、軍の側から画家を招いたのは初めての試みだった。昭和14年(1939年)7月、前年の取材を元に制作された『楊家宅望楼上の松井最高指揮官』を第1回聖戦美術展に出品する。 昭和15年(1940年)7月、興亜院の委託により大河内信敬、南政善、石川滋彦、井手宣通、須田剋太、黒田頼綱らと再び中国に赴く。朝井は南京に滞在して後に南京国民政府主席となる知日派の政治家汪兆銘の肖像を描き、8月15日に帰国する。同年10月、このときの取材を元に制作した『黎明へ』を、紀元二千六百年奉祝美術展に出品する。 昭和16年(1941年)は、朝井にとって大きな変化がはっきりと現れた年となった。この年朝井は光風会展の審査員となるが出品せず、文展にも出品していない。単身中国に旅立ち、上海、蘇州、南京などをめぐり、5月には日動画廊の上海支店である上海画廊で個展を開いた。このころから戦争取材の目的はほとんど忘れられ、南画を描いたり、墨で蘇州の風景を写生したりすることが多くなった。帰国後の同年8月、東京市大森区山王(現在の大田区山王)の富永花子(31歳)と結婚する(昭和17年7月27日届出)。本人は独身を好んだが、絵も描かずに書生と飲み歩いてばかりいる朝井を心配した海老原喜之助と岡田謙三の説得で、金持ちの娘である花子と渋々結婚させられたのである。 昭和17年(1942年)4月、富永邸の敷地内に建築中だったアトリエが完成し転居する。同年6月2日、長女祐子(現姓田中)が生まれる。昭和18年(1943年)2月、再び上海に赴く。昭和19年(1944年)5月14日、次女三喜(現姓飯森)が生まれる。昭和20年(1945年)3月、疎開した妻子と別れて単身上海を訪れ、黄浦江を望むブロードウェイマンション717号室で終戦を迎えた。一方、広島の実家は原爆投下の爆心地となり、弟の孝が犠牲になった。 勘右衛門さんはどうかといえば、外地に住む敗戦国民の屈辱も、痛みも、まるで外科医のことには無関心のごとく、相変わらず窓から見える港のスケッチを日課として余念なく、超然たる有様はさすがであった。もともと彼は息苦しい戦時の日本内地にあきらめをつけて、自由都市上海に渡ってきたのであれば、帰国にあたって彼の取るべき姿勢は決まっていた。 — 島崎蓊助
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