中国で終戦を迎えるとは? わかりやすく解説

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中国で終戦を迎える

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/26 00:12 UTC 版)

朝井閑右衛門」の記事における「中国で終戦を迎える」の解説

昭和13年1938年5月上海派遣軍報道部から戦争記録制作依頼を受け、中村研一小磯良平江藤純平柏原太郎向井潤吉南政善鈴木栄二郎、脇田和とともに上海に赴き、7月までアスター・ハウス・ホテル滞在するそれまで画家自らが従軍志願するのが普通だったが、叶わないことも多く、軍の側から画家招いたのは初めての試みだった。昭和14年1939年7月前年取材元に制作された『楊家望楼上の松井最高指揮官』を第1回聖戦美術展出品する昭和15年1940年7月興亜院委託により大河内信敬南政善石川滋彦井手宣通須田剋太黒田頼綱らと再び中国赴く朝井南京滞在して後に南京国民政府主席となる知日派政治家汪兆銘肖像描き8月15日帰国する同年10月、このときの取材元に制作した黎明へ』を、紀元二千六百年奉祝美術展出品する昭和16年1941年)は、朝井にとって大きな変化がはっきりと現れた年となったこの年朝井光風会展審査員となるが出品せず、文展にも出品していない。単身中国旅立ち上海蘇州南京などをめぐり、5月には日動画廊の上支店である上海画廊個展開いたこのころから戦争取材目的はほとんど忘れられ、南画描いたり、墨で蘇州風景写生したりすることが多くなった。帰国後の同年8月東京市大森区山王現在の大田区山王)の富永花子31歳)と結婚する昭和17年7月27日届出)。本人独身好んだが、絵も描かずに書生飲み歩いてかりいる朝井を心配した海老原喜之助岡田謙三説得で、金持ちの娘である花子渋々結婚させられのである昭和17年1942年4月富永邸の敷地内建築中だったアトリエ完成し転居する同年6月2日長女祐子現姓田中)が生まれる。昭和18年1943年2月、再び上海赴く昭和19年1944年5月14日次女三喜現姓飯森)が生まれる。昭和20年1945年3月疎開した妻子別れて単身上海訪れ黄浦江を望むブロードウェイマンション717号室で終戦迎えた一方広島実家原爆投下爆心地となり、弟の孝が犠牲になった勘右衛門さんはどうかといえば外地に住む敗戦国民の屈辱も、痛みも、まるで外科医のことには無関心のごとく、相変わらず窓から見える港のスケッチ日課として余念なく、超然たる有様はさすがであった。もともと彼は息苦しい戦時日本内地あきらめをつけて、自由都市上海渡ってきたのであれば帰国にあたって彼の取るべき姿勢決まっていた。 — 島崎蓊助

※この「中国で終戦を迎える」の解説は、「朝井閑右衛門」の解説の一部です。
「中国で終戦を迎える」を含む「朝井閑右衛門」の記事については、「朝井閑右衛門」の概要を参照ください。

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