ベトナムの国際社会への復帰
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「カンボジア・ベトナム戦争」の記事における「ベトナムの国際社会への復帰」の解説
カンボジアの軍事占領は、ベトナムの外交政策に重大な影響を与えた。1954年に独立してから、外交政策に関するベトナム共産党の観点は、共産主義と非共産主義の二つの陣営の世界秩序を維持する必要性を最重要要素としていた。確かにベトナムがソ連やラオス、カンボジア人民共和国と調印した友好条約は、この観点と矛盾しない。しかしベトナム共産党指導部のイデオロギーから来る行動原理は、クメール・ルージュ政権が崩壊した後の1979年のベトナムの非難に示されるように、限定的で非常に欠陥のあるものであることが証明された。その後、ベトナム政府は世界から孤立することになり、国家再建の努力は、資本主義の西側諸国からの援助を受けられないという障害に見舞われた。更にカンボジアにベトナム軍がいるということが、中国やアメリカ合衆国、ASEANとの外交関係の平常化を妨げる障害となった。 ソ連や東ヨーロッパの社会主義国が経験した衰退の中で、ベトナム政府はベトナムの疲弊した経済を活性化する巨大な努力の一環として、近隣の国との外交関係修復にのりだした。1979年の侵攻以来、中国はベトナムの北部国境に圧力をかけており、vi:Hà Tuyên省(現在のハザン省とトゥエンクアン省)は日常的に中国の砲兵隊により砲撃された。1985年9月、Hà Tuyênへの中国の砲撃には2,000発が撃ち込まれ、空前の量に達した。国境地域沿いの武力衝突の状態を緩和し、最終的に中国との関係を平常化する為に、ベトナム政府は1986年の第6回党大会で中国への敵対条項を全て削除し、ドイモイ政策も採択した。1990年8月、オーストラリアのガレス・エヴァンス外相が作成したカンボジア和平計画により、中越両国は和解に向けて動いた。 1990年9月上旬、ベトナムのドー・ムオイ首相やグエン・ヴァン・リン総書記、ファム・ファン・ドン前首相は成都に向かい、そこで中国の李鵬首相や中国共産党江沢民総書記と秘密会談を行った。1990年9月17日、ヴォー・グエン・ザップ将軍は中国を訪問、中国政府にかつての助力の礼を述べた。ベトナムの、中国との外交関係に関する改善が表面的な調印を迎えたものの、ベトナム指導部はプノンペンの傀儡政権を弱体化できる和平計画を是認するのに乗り気ではなかった。しかし1990年2月の第3回ジャカルタ非公式会合において、カンボジア4派が権力の共有について輪郭を明らかとし、また合意に達した。これによりベトナムと中国は急速に正式な外交関係再構築に動いた。1991年11月、新たに選出されたベトナムのヴォー・ヴァン・キエット首相は、北京に向かい、中国の李鵬と会い、正式な外交関係を築かずに10年後に両国間の外交関係を再構築する11か条の共同声明を発表した。 カンボジア紛争の終結で1979年からASEANが行ってきた通商禁止や援助禁止も終わりを告げた。1990年1月、タイのチャートチャーイ・チュンハワン首相や他のインドシナ半島の国々は、ASEAN加盟に向けた対ベトナム支援を公に表明した。1991年後半から1992年前半の時期に、ベトナムはASEANの数か国との関係を修復した。その結果、1991年から1994年にかけて、ASEANの投資が、ベトナムでの外国からの直接投資の15%を占めるまでになった。明白な経済利益は別にして、ASEANは、冷戦後の時代におけるベトナムの対外的な脅威に対し、安全保障を行う平和的な環境づくりも行い、この時期にはソ連の援助は最早得られなくなった。従って中心となるASEAN当局者たちは、1994年のバンコクでのASEAN閣僚会議に参加するようベトナムを招待した。この後の1995年7月28日、ベトナムは公式に7番目のASEAN加盟国となった。その際1995年8月、ハノイのアメリカ合衆国連絡事務所は、アメリカ合衆国のビル・クリントン大統領が1995年7月11日にベトナムとの外交関係を正式に平常化すると発表した後で、大使館に格上げされた。
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