ベトナムの僧侶に関する報道
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「本多勝一」の記事における「ベトナムの僧侶に関する報道」の解説
ベトナムが北ベトナム軍に侵略統一された後、旧南ベトナムのカントー市にある永厳寺で、12人の僧侶が集団自殺をした。共産政府への抗議の自殺である。これについて本多は自著「ベトナムはどうなっているか」(朝日新聞社刊)で、「サイゴン当局の捜査によれば、色気違い坊主による単なる無理心中事件。」と発表した。 これを受けて元東京学芸大学教授の殿岡昭郎が、『諸君!』(1981年5月号)において、「本多氏はハノイのスピーカー役を果たしている」と批判。殿岡は、ベトナム統一仏教会最高委員会のマン・ジャックと会って真相を聞き、焼身自殺直前の勤行を録音したテープを入手し、心中などでなく共産政府への抗議の殉教である確証をつかんでいたのである。 すると本多が連載する「貧困なる精神(1981年9月号)」において、「敵を攻撃するときの文章作法」と題し、匿名扱いの殿岡を、「馬鹿か無能」「物笑いの種」などと書いて罵倒し、さらに殿岡が勤める学芸大学当局に「殿岡氏のような程度の低い教授が一度任命されれば、もはやこれを罷免する権利はどこにもないのでしょうか。」という類の内容を含む「公開質問状」と称する手紙を送り続ける。 学長や教授会幹部は、「無礼な手紙に答える必要はない」とし無視するが、これから三ヶ月後、殿岡は学芸大学を退職した。 その後、『諸君!』の発行元文藝春秋や殿岡を相手取り、損害賠償請求訴訟を起こす。本多は、ハノイ当局の見解を伝えただけなのに、それが本多本人の見解であるかのように執筆した点が名誉毀損であると主張した。なお、本多は裁判中、殉教自殺か心中かはという争点からは避け続けた。そして1992年2月25日、東京地裁民事三十六部において「本多氏の取材内容の信憑性を疑ったことは相当の根拠があった。」とし、本多の請求を棄却する判決が下った。 これを受けて、右翼の立場からは「そもそも、記者たるものが、他人の見解を伝えただけと居直る発想が腐っている。」や「抗議の仕方が陰湿だ。」といった批判がある。
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