ベトナムにおける「天下」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 10:16 UTC 版)
前述したように、ベトナムにおける「天下」概念の成立は13世紀にモンゴル軍撃退後の国威発揚に伴って顕著に確認される。陳朝で成立した『大越史記(ベトナム語版、中国語版、英語版)』(越: Đại Việt sử ký)においては、秦漢時代に今日の広東からベトナム北部に存在した南越国をベトナム最初の正統王朝とし、この地域を対象とする「天下」概念が形成された。この「天下」概念の実例としては、1428年に大越が明から独立した際、この時代を代表する文人であるグエン・チャイが「自趙丁李陳之肇造、我国与漢唐宋元而各帝一方」(趙佗の南越国・丁部領の丁朝・李朝・陳朝以来、我が国は中国の漢・唐・宋・元などの王朝と同じく帝を称して天下の一方に君臨してきた)と述べていることがあげられる。ここに明らかなように、ベトナムの「天下」は中国の「天下」と同列なものとして主観されている。このような「天下」概念の下では、従来の仏教・道教の神々にかわり、ベトナム土着の神々が尊重され、対外戦争に勝利するたびベトナムの土着神に対して加封(神々に対し新たに称号を加えること)がなされた。このことはベトナムの「天下」概念において、皇帝はベトナム土着の神々より上位に位置していることとともに、民族固有の信仰がこのような「天下」概念を側面から支えていたことを示している。 15世紀末頃からこのような「天下」概念に若干の変化が起こった。ベトナムの正史において南越国が徐々に本紀から外され、ベトナム独自の神話や伝承に基づく涇陽王・貉龍君・雄王などが正史における地位を向上させた。それとともに中国領内にある嶺南地方をベトナムと一体として考える思想が衰退し、18世紀末には正史において南越国は正統から外された。このころ現実のベトナムは黎朝の名目的皇帝のもとに北に「トンキン」と呼ばれた鄭氏政権、南に「コーチシナ」と呼ばれた阮氏政権が実質的に支配を二分している状況にあった。このころの「天下」は黎朝の皇帝の下に成立しているトンキン・コーチシナを中心とした世界であったと考えられている。19世紀に成立した阮朝では、中国向けには「越南」を名乗りながらも自称国号においては「大南」を称し、中華世界とは区別された独自の領域としてのベトナム世界が規定されるに至った。
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