冷戦後 (1990年〜現在)
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「アメリカ合衆国の歴史」の記事における「冷戦後 (1990年〜現在)」の解説
詳細は「アメリカ合衆国の歴史 (1991-現在)」を参照 ニクソンの跡を継いだジェラルド・R・フォード(共和党)がニクソンに対して恩赦を与えたことや、さらにこれに続くジミー・カーター(民主党)の政権運営が弱腰と批判された事から、1970年代を通じて政治不信は解消されなかった。特に、イラン革命の際に占拠された大使館を救出する作戦が失敗し、数十名の海兵隊員を死なせた事は、国民の米軍に対する信頼を裏切ることとなった。さらには、この大使館問題が解決される際、裏取引があったことが後に明るみに出て大問題となった(イラン・コントラ事件)。 ケネディによって市民権を獲得した黒人も、白人による差別感情は短期間で拭えるものではなかった。高級職業につくことは難しく、貧しい生活が続いた。大都市の中心ではことごとく低所得者や黒人・プエルトリコ人の暮らすスラム街が形成され、高所得の白人は郊外の住宅地に移転し、都市のドーナツ化現象が進んだ。こういった米国の負の特徴は「アメリカ病」と呼ばれ、アメリカの影響下にある先進諸国共通の問題となっていった。政府は問題を改善する為に福祉に力を入れざるを得なくなり、1970年代に福祉国家へ生まれ変わった。 こうした中で保守派、福音主義(en:Evangelicalism)、キリスト教根本主義、キリスト教右派団体の期待を背負って登場したのがロナルド・レーガン(共和党)である。レーガンはソ連を「悪の帝国」と規定し、それに対抗するためにSDI(スターウォーズ構想)をはじめるなど、それまでの柔軟な外交政策を強硬的なものに変更した。おりしもソ連がアフガニスタンへの侵攻を開始したため、冷戦は新たな高まりを見せた。そのためこの時期を「新冷戦」と言う。このような強攻策はレーガン政権に入り込んだ新保守主義(ネオコン)の影響が強く働いている。ネオコンはリベラルな民主党で勢力を伸ばしていたが、1970年代の民主党の支持率低下によって見切りをつけ、大挙して共和党へ流れ込んだ。 レーガンは、軍事では中米紛争に介入し、ニカラグア、エルサルバドル、グアテマラの内戦で反共を掲げる政府軍や、ニカラグアの反革命傭兵軍団コントラを支援した。また、グレナダ侵攻を成功させ、ベトナムとイランで傷ついた軍の威信も取り戻したが、すぐにレバノン内戦で大使館と海兵隊が襲われ、200名以上の死者を出したことから、地上作戦には消極的になった。レーガンは中央アメリカでは、人権侵害を行う反共組織の支援に徹したが、こうした姿勢が仇になり、イラン・コントラ事件というスキャンダルを巻き起こした。リビアのカダフィ政権とは長く対立し、戦闘機同士の空中戦や、旅客機爆破事件(パンアメリカン航空103便爆破事件)の報復攻撃などを行った。また、イギリスや日本といった同盟国との関係を重視し、これらの国とは蜜月の関係となった。オイルショック以来、奇跡的な経済成長を遂げた日本・西ドイツを影響下に置きながら、政治・経済・軍事を西側先進国の合議によって運営しようとするサミットが開催されるようになったが、1985年のプラザ合意でその影響力が発揮された。この時代は1960年代末までのニューディール絶頂期から保守的な時代へと大きく転換した時代である。 産業面では、半導体を用いるコンピュータを中心とした先端工業が発達し、シリコンバレーと呼ばれる半導体工業地帯が登場し、ハイテク草創期において技術がほぼ独占状態となった。一方、1970年代から1980年代にかけ、経済成長によって大国となった日本や西ドイツが自動車、家電、オーディオ機器などを次々に米国で展開した。特に日本製の製品は大衆的で高品質低価格として非常に人気となり、日本製自動車が全米の保有台数の4分の1から3分の1に迫るまでになった。また、米国の独占が続いたハイテク産業においても、1980年代後半には日本企業が急成長してシェアを奪い、米国企業の危機感を煽った。このため、商務省と財界は日本に対して貿易不均衡の是正として様々な圧力をかけ、牛肉や柑橘類の自由貿易を認めさせたが、日本側も様々な手段で抵抗した為、すさまじい貿易摩擦へと展開した。米国内では、国民の不満を日本へ向けるための煽動報道が繰り返し行われ、1990年代前半にかけ、「ジャパンバッシング」(日本叩き)と呼ばれる運動が広がった。 レーガンの跡を継いだジョージ・H・W・ブッシュ(共和党)は積極的な強硬政策を採り、パナマ侵攻と湾岸戦争を成功させ、軍の威信と信頼を取り戻した。また、上記のような反日感情を反映し、日本に対しては様々な圧力外交を行った。この露骨な圧力政策は、日本のバブル経済が崩壊する1990年代半ばまで続いた。さらにブッシュの時代、ロス暴動をきっかけとして、国内に根強く残る人種差別感情や人種間対立が浮き彫りとなった。 1989年11月9日、冷戦の象徴であったベルリンの壁が崩壊し、それを受けて12月3日のミハイル・ゴルバチョフとのマルタ会談では「冷戦の終結」が宣言された。
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冷戦後 (2000年代以降)
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「駆逐艦」の記事における「冷戦後 (2000年代以降)」の解説
冷戦後のアメリカ駆逐艦は、マルチハザード化およびグローバル化に伴う任務の多様化への対応を迫られた。これに対して、まず1994年度計画より、アーレイ・バーク級に艦載ヘリコプターの格納庫を追加するなどして汎用性を向上させたフライトIIAの建造を開始するとともに、完全新規設計のズムウォルト級の計画が進められた。同級は満載排水量15,000トンまで大型化し、徹底的なステルス艦化や波浪貫通型タンブルホーム船体、新型の155ミリ砲など新機軸をふんだんに盛り込んだ一方で、冷戦終結直後の国際情勢に過剰適応した結果、駆逐艦の伝統的な任務であった海上戦力撃破よりも対地戦力投射に偏重しており、また新装備にも問題が多発し、建造費用の高騰もあって建造は3隻で終了した。そのかわりにアーレイ・バーク級フライトIIAの建造が再開され、2016年度からは更に発展させたフライトIIIに発展することになった。 ソビエト連邦の崩壊後の政治的混乱やロシア財政危機を受けて、ロシア駆逐艦の整備はしばらく停滞していたが、2000年代に入ると、まずアドミラル・ゴルシコフ級やアドミラル・グリゴロヴィチ級といったフリゲートの建造が開始された。そして2010年代後半には、新型駆逐艦としてリデル級(英語版)の計画が発表されたが、これはズムウォルト級をも上回る満載20,000トン級に大型化するとともに核動力化も計画されており、従来の駆逐艦というよりは、キーロフ級やスラヴァ級などの巡洋艦の後継艦と見られている。 一方、従来は旧式のソ連駆逐艦の山寨版に過ぎなかった中国駆逐艦も、中華人民共和国の経済成長に支えられて、1990年代後半より中国人民解放軍海軍の戦力が劇的に拡充されるのにあわせて、急速に発達・更新されていった。しばらくは複数の艦種・艦級を少数ずつ建造していたが、2010年代に入ると、まず052C型、続いて発展型の052D型の大量建造が開始された。そしてまた、052C/D型を更に発展させて満載排水量12,000トンまで大型化させた055型の整備も着手された。 米海軍のアーレイ・バーク級フライトIIA 米海軍のズムウォルト級 中国海軍の055型(イメージ図)
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