冷戦後とは? わかりやすく解説

冷戦後 (1990年〜現在)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 14:52 UTC 版)

アメリカ合衆国の歴史」の記事における「冷戦後 (1990年〜現在)」の解説

詳細は「アメリカ合衆国の歴史 (1991-現在)」を参照 ニクソンの跡を継いだジェラルド・R・フォード共和党)がニクソンに対して恩赦与えたことや、さらにこれに続くジミー・カーター民主党)の政権運営弱腰批判された事から、1970年代通じて政治不信解消されなかった。特に、イラン革命の際に占拠され大使館救出する作戦失敗し数十名の海兵隊員死なせた事は、国民米軍対す信頼裏切ることとなったさらには、この大使館問題解決される際、裏取引があったことが後に明るみ出て大問となったイラン・コントラ事件)。 ケネディによって市民権獲得した黒人も、白人による差別感情短期間で拭えるものではなかった。高級職業につくことは難しく貧しい生活続いた大都市中心ではことごとく低所得者黒人プエルトリコ人の暮らすスラム街形成され高所得白人郊外住宅地移転し都市ドーナツ化現象進んだ。こういった米国の負の特徴は「アメリカ病」と呼ばれアメリカの影響下にある先進諸国共通の問題となっていった。政府問題改善する為に福祉力を入れざるを得なくなり1970年代福祉国家生まれ変わったこうした中で保守派福音主義en:Evangelicalism)、キリスト教根本主義キリスト教右派団体期待背負って登場したのがロナルド・レーガン共和党)である。レーガンソ連を「悪の帝国」と規定し、それに対抗するためにSDIスターウォーズ構想)をはじめるなど、それまで柔軟な外交政策強硬的なものに変更したおりしもソ連アフガニスタンへ侵攻開始したため、冷戦新たな高まり見せた。そのためこの時期を「新冷戦と言うこのような強攻策はレーガン政権入り込んだ新保守主義ネオコン)の影響強く働いている。ネオコンリベラルな民主党勢力伸ばしていたが、1970年代民主党支持率低下によって見切りをつけ、大挙して共和党流れ込んだレーガンは、軍事では中米紛争介入しニカラグアエルサルバドルグアテマラ内戦反共掲げ政府軍や、ニカラグア反革命傭兵軍コントラ支援したまた、グレナダ侵攻成功させ、ベトナムイランで傷ついた軍の威信取り戻したが、すぐにレバノン内戦大使館海兵隊襲われ200名以上の死者出したことから、地上作戦には消極的になった。レーガン中央アメリカでは、人権侵害を行う反共組織支援徹したが、こうした姿勢が仇になり、イラン・コントラ事件というスキャンダル巻き起こしたリビアカダフィ政権とは長く対立し戦闘機同士空中戦や、旅客機爆破事件パンアメリカン航空103便爆破事件)の報復攻撃などを行ったまた、イギリス日本といった同盟国との関係を重視し、これらの国とは蜜月の関係となったオイルショック以来奇跡的な経済成長遂げた日本西ドイツ影響下に置きながら、政治・経済軍事西側先進国合議によって運営しようとするサミット開催されるようになったが、1985年プラザ合意その影響力が発揮された。この時代1960年代末までのニューディール絶頂期から保守的な時代へと大きく転換した時代である。 産業面では、半導体用いコンピュータ中心とした先端工業発達しシリコンバレー呼ばれる半導体工業地帯登場しハイテク草創期において技術がほぼ独占状態となった一方1970年代から1980年代にかけ、経済成長によって大国となった日本西ドイツ自動車家電オーディオ機器などを次々米国展開した。特に日本製製品大衆的高品質低価格として非常に人気となり、日本製自動車全米保有台数4分の1から3分の1に迫るまでになったまた、米国独占続いたハイテク産業においても、1980年代後半には日本企業急成長してシェア奪い米国企業危機感煽ったこのため商務省財界日本に対して貿易不均衡是正として様々な圧力をかけ、牛肉柑橘類自由貿易認めさせたが、日本側も様々な手段抵抗した為、すさまじ貿易摩擦へと展開した米国内では、国民の不満を日本へ向けるための煽動報道繰り返し行われ1990年代前半にかけ、「ジャパンバッシング」(日本叩き)と呼ばれる運動広がったレーガンの跡を継いだジョージ・H・W・ブッシュ共和党)は積極的な強硬政策を採り、パナマ侵攻湾岸戦争成功させ、軍の威信信頼取り戻したまた、上記のような反日感情反映し日本に対して様々な圧力外交行った。この露骨な圧力政策は、日本バブル経済崩壊する1990年代半ばまで続いた。さらにブッシュ時代ロス暴動きっかけとして、国内根強く残る人種差別感情人種間対立浮き彫りとなった1989年11月9日冷戦象徴であったベルリンの壁崩壊し、それを受けて12月3日ミハイル・ゴルバチョフとのマルタ会談では「冷戦の終結」が宣言された。

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冷戦後 (2000年代以降)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 04:04 UTC 版)

駆逐艦」の記事における「冷戦後 (2000年代以降)」の解説

冷戦後のアメリカ駆逐艦は、マルチハザード化およびグローバル化に伴う任務多様化への対応を迫られた。これに対して、まず1994年度計画より、アーレイ・バーク級艦載ヘリコプター格納庫追加するなどして汎用性を向上させたフライトIIA建造開始するとともに、完全新規設計ズムウォルト級の計画進められた。同級満載排水量15,000トンまで大型化し、徹底的なステルス艦化や波浪貫通型タンブルホーム船体新型155ミリ砲など新機軸ふんだんに盛り込んだ一方で冷戦終結直後国際情勢過剰適応した結果駆逐艦伝統的な任務であった海上戦力撃破よりも対地戦力投射偏重しており、また新装備にも問題多発し建造費用高騰もあって建造は3隻で終了したそのかわりアーレイ・バーク級フライトIIA建造再開され2016年度からは更に発展させたフライトIII発展することになったソビエト連邦の崩壊後の政治的混乱ロシア財政危機受けてロシア駆逐艦整備はしばらく停滞していたが、2000年代に入ると、まずアドミラル・ゴルシコフ級やアドミラル・グリゴロヴィチ級といったフリゲート建造開始された。そして2010年代後半には、新型駆逐艦としてリデル級(英語版)の計画発表されたが、これはズムウォルト級をも上回る満載20,000トン級に大型化するとともに動力化計画されており、従来駆逐艦というよりは、キーロフ級スラヴァ級などの巡洋艦後継艦見られている。 一方従来旧式ソ連駆逐艦山寨版に過ぎなかった中国駆逐艦も、中華人民共和国の経済成長支えられて、1990年代後半より中国人民解放軍海軍戦力劇的に拡充されるのにあわせて急速に発達更新されていった。しばらくは複数艦種艦級少数ずつ建造していたが、2010年代に入ると、まず052C型、続いて発展型の052D型の大量建造開始された。そしてまた、052C/D型を更に発展させて満載排水量12,000トンまで大型化させた055型の整備着手された。 米海軍アーレイ・バーク級フライトIIA 米海軍ズムウォルト中国海軍の055型(イメージ図

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