冷戦前夜の「ドナウ連邦」構想
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 08:57 UTC 版)
「ドナウ連邦構想」の記事における「冷戦前夜の「ドナウ連邦」構想」の解説
第二次世界大戦が勃発した当初は、小国が乱立することによって中欧情勢が不安定化したという認識が支配的であった。当事国の指導者だけでなく、亡命者を受け入れる立場となった連合国側もこの地域の連邦化を積極的に支持した。やがて大戦後期になるとソビエト連邦がナチス・ドイツに対する攻勢を強め、中欧地域におけるソ連の影響力が増大した。このため、小国乱立による不安定な情勢の解消というよりも、もっぱら中欧の共産主義化を防ぐための手段として連邦を作ろうとする動きが活発になった。 ソ連による中欧支配の危険を察知したウィンストン・チャーチル英首相は、考えられるソ連支配に対抗する平衡力として、中欧に連合組織を準備したいと考えた。1941年6月以後、イギリスとソ連のあいだで、オーストリアの戦後についての話し合いの場が持たれたが、この会談においてイギリスは、二種類の連合形成案による解決を提唱した。 ドイツからバイエルンとラインラントを切り離し、オーストリアと結びつける案(カトリック系ドイツ民族の集合体) ウィーンを首都とする「ドナウ連邦」を形成する案(ハプスブルク君主国の歴史的共同体) ソ連のヨシフ・スターリン書記長は、後者のドナウ連邦が反ソ的な性質のものになるだろうと判断して前者を支持したが、イギリスは大戦が終結するまでひたすらドナウ連邦の実現を主張した。1943年のテヘラン会談においてチャーチル首相は、バイエルン・オーストリア・ハンガリー・ラインラントの連合を提案したが、チャーチルはこの考えを、1944年10月のスターリンとのモスクワ会談(英語版)でも、1945年2月のヤルタ会談でも繰り返し述べている。 オーストリア=ハンガリー帝国の元皇太子オットー・フォン・ハプスブルクも「ドナウ連邦」論者の一人で、チャーチルのドナウ連邦案に対して賛意を表明した。オットー大公は、彼による君主制のもとに、オーストリア・ハンガリー・ルーマニア・ボヘミア・モラヴィア・スロヴァキア、それに、もしかしたらクロアチアから成る「ドナウ連邦」を形成することを亡命先のアメリカで唱えた。ハプスブルク継承諸国のすべての亡命政府と政治的指導者は王政復古に激しく反対したが、チャーチルとフランクリン・ルーズベルト米大統領はこのオットー大公の提案に考慮をはらった。 戦間期のチェコスロヴァキアで首相を務めたかつての「ベルヴェデーレ・サークル」の一員ミラン・ホッジャも、『中欧連邦:省察と回想』と題する英語の本を出版し、ソ連とドイツの間に位置する八カ国の連邦化を訴えた。チェコ人やスロヴァキア人といった中欧の小国民が二大国の狭間で生き延びるためには、農民民主主義を基盤とする安定した政治体制を構築し、かつ、バルト海からエーゲ海に至る「回廊地帯(corridor)」の連邦を樹立するべきとするのがホッジャの主張であった。 なお、オットー大公とホッジャは結託して君主国の復活を画策しているといった噂も流れたが、ホッジャは『中欧連邦』において、連邦制への円滑な移行のために君主制を採用する可能性は排除しないとしつつ、ニューヨーク・タイムズのインタビューでは、ハプスブルク王朝の復活はありえないと主張した。いずれにせよ、チェコスロヴァキア亡命政府での主導権争いに敗れたホッジャの提案は、議論の対象にもならず無視され、忘れ去られてしまった。
※この「冷戦前夜の「ドナウ連邦」構想」の解説は、「ドナウ連邦構想」の解説の一部です。
「冷戦前夜の「ドナウ連邦」構想」を含む「ドナウ連邦構想」の記事については、「ドナウ連邦構想」の概要を参照ください。
- 冷戦前夜の「ドナウ連邦」構想のページへのリンク