人種間対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 18:44 UTC 版)
暴動が始まったころのサウス・セントラル地区では、人種の割合も大きく変動していた。かつて居住者の大半を占めていた黒人に代わって、プエルトリコ系・ラテン系・アジア系の移民が急増した。国勢調査によれば、同地区におけるプエルトリコ系・ラテン系住民の増加率は134%に達している。 こうした中、以前は黒人が担っていた単純労働が、より低賃金のプエルトリコ系・メキシコ系市民へ移行しはじめると、黒人社会では不当に仕事を奪われているとして反発が高まった。 また韓国系市民も急増していた。アメリカでは1965年に国別の移民数割当を廃止する新しい移民法が成立したため、当時軍事独裁政権下にあった韓国からアメリカへ逃れる韓国人が急増、1980年代後半には毎年3万人超がアメリカへ移住するようになっていた。 韓国からの移民の多くは、自国では医師や建築家といった専門職に就いていた者であっても、言語の壁や雇用上の不利から、ほとんどが小規模商店を営業することになった。またその大半は、大型チェーン店のない黒人貧困地区に店を置かざるを得なかったため、万引きや窃盗・破壊行為などに恒常的に悩まされることとなった。多くは黒人街とは別の場所に住居を持ち、また英語を流暢に話す者も比較的少なかったため、黒人居住区からは孤立した独自のコミュニティを築いていた。 そうした韓国系移民の商店が大きな成功を収めるようになると、黒人社会では「韓国系は自分たちには打ち解けないのに黒人を相手に儲けている」というイメージが定着し、また経済格差が広がってゆくことに対する怨嗟・不満の声が出るようになった。またそうした不満を背景に、韓国系アメリカ人の店では客扱いがひどい、商品を値上げしているといった悪評が黒人社会で意図的に流されるようになっていった。 大きな暴動・略奪の多くは市内のコリアタウン地区で発生したため、これらの韓国系市民による黒人への差別感情や、韓国系市民と黒人社会との確執などが暴動につながったのではないかとかつては指摘されていた。しかし前述のとおり、この見方は現在では多くの研究者・ジャーナリストらの詳細な調査によって明確に否定されており、暴動発生は、あくまでロサンゼルスという多人種都市における様々な人種間の緊張が背景になったと考えられている。 1980年代後半のアメリカでは、そうした人種的マイノリティ間の反目や衝突が各地で起きるようになっていた。1989年には、スパイク・リー監督が映画『ドゥ・ザ・ライト・シング』でニューヨークのブルックリンを舞台に、黒人・イタリア系・プエルトリコ系・韓国系など人種間の衝突が店舗襲撃へと発展する様子を描いている。
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