第2次チャーチル内閣
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第2次チャーチル内閣 | |
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イギリス 第77代内閣![]() |
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1951年 - 1955年 | |
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第2次チャーチル内閣の閣僚
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成立年月日 | 1951年10月26日 |
終了年月日 | 1955年4月7日 |
組織 | |
国王 | ジョージ6世(1951年 - 1952年) エリザベス2世(1952年 - 1955年) |
首相 | ウィンストン・チャーチル |
副首相 | アンソニー・イーデン |
総閣僚数 | 149人 |
与党 | 保守党 |
議会における地位 | 過半数 321/625 |
詳細 | |
成立直前の選挙 | 1951年イギリス総選挙 |
議会任期 | 第40議会 |
前内閣 | 第2次アトリー内閣 |
次内閣 | イーデン内閣 |
第2次チャーチル内閣(だいにじチャーチルないかく)は、ウィンストン・チャーチルが第63代首相に任命され、1951年10月26日から1955年4月7日まで続いたイギリスの内閣。
1951年イギリス総選挙で保守党が勝利したことによって成立した。また、この内閣の時に国王ジョージ6世が崩御し、女王エリザベス2世が即位した。
閣僚
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脚注
第2次チャーチル内閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)
「ウィンストン・チャーチル」の記事における「第2次チャーチル内閣」の解説
こうして6年ぶりに保守党が政権復帰し首相に返り咲くことになったチャーチルだったが、彼はすでに77歳になっており、しばしば心臓発作を起こすなど健康な状態とは言い難かった。任期中の1952年2月6日にジョージ6世が崩御し、エリザベス王女がエリザベス2世として女王に即位した。1953年には女王よりガーター勲章を授与され、以降「サー・ウィンストン・チャーチル」となる。 政権奪還後ただちに労働党政権下で国有化された鋼鉄産業を民営化したが、一方でそれ以外の労働党政権の社会改良政策は継承した。住宅地方大臣ハロルド・マクミランは住宅建設に力を入れ、1年間に30万戸の建設という先の総選挙の公約を達成した。 1953年3月のソ連でのスターリンの死を契機として、外交面でもチャーチルの共産主義国に対する融和的態度が見られるようになった。彼が軟化したのは原爆の時代に世界大戦を起こしたらイギリスの生存が危ういと考えたためだった。東西は「雪解け」と呼ばれる緊張緩和の時代へ向かっていき、同年7月には朝鮮戦争が終結している。さらに1954年7月にはインドシナ戦争をめぐるジュネーヴ協定が締結されたが、イギリスはアメリカの軍事介入を抑えてこの協定締結を成功させる役割を果たした。 しかしその一方でチャーチルは反共政策も粛々と進めた。西ドイツを反共の防波堤にするために同国の再軍備を促し、それに関連して1954年11月24日に「大戦が終わる直前、私はモントゴメリー卿に投降したドイツ兵の武器を慎重に蓄えるよう命令を出したが、これはソビエトが前進してきた場合、ドイツ兵を再武装させて我々と共闘させるためであった」という裏話を暴露し、国際的な反響を呼んだ。また原爆開発を推進し、1952年10月にはオーストラリア沖で核実験を行った(ハリケーン作戦)。米ソに次ぐ第3の核保有国としての存在感を世界に知らしめた。1954年にはアジア反共体制の東南アジア条約機構(SEATO)に参加した。 一方植民地については、帝国主義者チャーチルといえども時代の趨勢には抗えず、アトリー前政権に引き続いて、失われていく一方だった。1951年にはエジプトとの関係が緊迫する中、エジプトを反ソ陣営に引きとめるためにイギリス軍をエジプトから撤兵させることになった。イランとは引き続き、石油国有化をめぐって争い続けたが、1954年にはイギリス・イラン協定という妥協案を呑む羽目となった。1952年にケニアでマウマウ団の乱が勃発すると、チャーチルは空軍をも出動させて反英ゲリラの鎮圧にあたった。だが懐柔のために様々な植民地支配の緩和を行うことも余儀なくされ、最終的にはチャーチル退任後の1963年12月にケニアは独立した。 1953年に『第二次大戦回顧録』などでノーベル文学賞を受賞。現職の国家指導者が同賞を受けたのは、現在までチャーチルのみである(後にシャルル・ド・ゴールがフランス大統領在任中の1963年に候補となっていたことが明らかになった)。1954年11月30日に80歳を迎え、グラッドストンに次ぐ高齢首相となった。しかしこの頃にはチャーチルの耳はすっかり遠くなり、閣議で昔話をとりとめもなく語りだすばかりになっていた。多くの閣僚がチャーチルを引退させる必要を痛感していた中、ついにマクミランがチャーチルに引退を勧めた。チャーチルは素直にこれを了承し、1955年4月に首相職を辞した。後任の首相・保守党党首になったのは外相サー・アンソニー・イーデンだった。退任にあたってエリザベス2世女王は「伯爵位を与える」との叡慮を示したが、チャーチルは「庶民院議員として政治家を続けること」を希望し、これを拝辞した。
※この「第2次チャーチル内閣」の解説は、「ウィンストン・チャーチル」の解説の一部です。
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