第2次チャーチル内閣
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第2次チャーチル内閣 | |
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イギリス 第77代内閣![]() |
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1951年 - 1955年 | |
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第2次チャーチル内閣の閣僚
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成立年月日 | 1951年10月26日 |
終了年月日 | 1955年4月5日 |
組織 | |
国王 | ジョージ6世(1951年 - 1952年) エリザベス2世(1952年 - 1955年) |
首相 | ウィンストン・チャーチル |
副首相 | アンソニー・イーデン |
総閣僚数 | 149人 |
与党 | 保守党 |
議会における地位 | 過半数 321/625 |
詳細 | |
成立直前の選挙 | 1951年イギリス総選挙 |
議会任期 | 第40議会 |
前内閣 | 第2次アトリー内閣 |
次内閣 | イーデン内閣 |
第2次チャーチル内閣(だいにじチャーチルないかく)は、ウィンストン・チャーチルが第63代首相に任命され、1951年10月26日から1955年4月7日まで続いたイギリスの内閣。
1951年イギリス総選挙で保守党が勝利したことによって成立した。また、この内閣の時に国王ジョージ6世が崩御し、女王エリザベス2世が即位した。
概要
1951年10月、サー・ウィンストン・チャーチル率いる保守党は総選挙で勝利し、政権奪還を果たした[1]。しかしチャーチルはすでに76歳になっており、しばしば心臓発作を起こすなど健康面で問題を抱えていた[2][1]。
政権奪還後ただちに労働党政権下で国有化された鉄鋼業を民営化したが、それ以外のアトリー内閣の社会改良政策は継承した。住宅地方大臣ハロルド・マクミランは住宅建設に力を入れ、1年間に30万戸の建設という先の総選挙の公約を達成した[3]。また、政権下で自国製の原爆が完成し、1952年10月にオーストラリア沖で核実験を行った(ハリケーン作戦)[4]。
外交面ではインドシナ戦争のジュネーブ協定で仲介役を果たしたほか、1954年にはアジア反共体制の東南アジア条約機構(SEATO)に参加した[5]。
任期中の1952年2月6日に国王ジョージ6世が崩御し、エリザベス王女がエリザベス2世として女王に即位した。翌年、政権下でエリザベス2世の戴冠式が行われた。
戴冠式から3週間後(1953年6月)、イタリアのアルチーデ・デ・ガスペリ首相訪英に伴う晩餐会が催されたが、この直後、チャーチルは脳梗塞にたおれた。翌日の閣議でも呂律が回らないほどだったが、このときは奇蹟的に回復した[6]。老齢のチャーチルは1954年4月に首相を辞任し、同月6日に政界を引退した[7]。前日には、エリザベス2世がダウニング街10番地を訪れて、公爵位をチャーチルに授与する叡慮を示したが、チャーチルはこれを辞退した[注釈 1][7][3]。
後任の首相にはアンソニー・イーデン外務大臣が就くこととなる。
閣内大臣一覧
職名 | 写真 | 氏名 | 在任期間 |
首相 | ![]() |
サー・ウィンストン・チャーチル | 1951年10月 - 1955年4月 |
大法官 | ![]() |
ギャヴィン・シモンズ (のち初代シモンズ子爵) |
1951年10月 - 1954年10月 |
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初代キルミュア子爵 デイヴィッド・ファイフ (のち初代キルミュア伯爵) |
1954年10月 - 1955年4月 | |
枢密院議長 貴族院院内総務 |
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初代ウールトン男爵 フレデリック・マーキス |
1951年10月 - 1952年11月 |
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第5代ソールズベリー侯爵 ロバート・ガスコイン=セシル |
1952年11月 - 1955年4月 | |
王璽尚書 庶民院院内総務 |
第5代ソールズベリー侯爵 ロバート・ガスコイン=セシル |
1951年10月 - 1952年 | |
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ハリー・クルックシャンク (のち初代クルックスシャンク子爵) |
1952年 - 1955年4月 | |
財務大臣 | ![]() |
ラブ・バトラー (のちバトラー男爵) |
1951年10月 - 1955年4月 |
内務大臣 | サー・デイヴィッド・ファイフ (在任中に初代キルミュア子爵に叙される) |
1951年10月 - 1954年10月 | |
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グウィリアム・ロイド=ジョージ (のち初代テンビー子爵) |
1954年10月 - 1955年4月 | |
外務大臣 | ![]() |
サー・アンソニー・イーデン (のち初代エイヴォン伯爵) |
1951年10月 - 1955年4月 |
植民地大臣 | ![]() |
オリヴァー・リトルトン (のち初代シャンドス子爵) |
1951年10月 - 1954年7月 |
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アラン・レノックス=ボイド (のち初代マートンのボイド子爵) |
1954年7月 - 1955年 | |
農業・漁業・ 食糧大臣 |
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サー・トマス・ダグデイル (のち初代クラソーン男爵) |
1951年10月 - 1954年7月 |
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デリック・ヒースコート=エイマリー (のち初代エイマリー子爵) |
1954年7月 - 1955年 | |
コモンウェルス 担当大臣 |
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初代イスメイ男爵 ヘイスティングス・イスメイ |
1951年10月 - 1952年3月 |
第5代ソールズベリー侯爵 ロバート・ガスコイン=セシル |
1952年3月 - 11月 | ||
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フィリップ・カンリフ=リスター (のち初代スウィントン伯爵) |
1952年11月 - 1955年 | |
教育大臣 | ![]() |
フローレンス・ホーズブラ (のちホーズブラ女男爵) |
1951年10月 - 1954年10月 |
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デイヴッド・エクルズ (のち初代エクルズ子爵) |
1954年10月 - 1955年 | |
住宅・地方自治大臣 | ![]() |
ハロルド・マクミラン (のち初代ストックトン伯爵) |
1951年10月 - 1954年10月 |
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ダンカン・サンズ (のちダンカン=サンズ男爵) |
1954年10月 - 1955年 | |
厚生労働大臣 | ![]() |
サー・ウォルター・モンクトン (のち初代ブレッチリーのモンクトン子爵) |
1951年10月 - 1955年4月 |
ランカスター公領担当大臣 | フィリップ・カンリフ=リスター | 1951年10月 - 1952年11月 | |
初代ウールトン男爵 フレデリック・マーキス |
1952年11月 - 1955年 | ||
年金大臣 | ![]() |
オズバート・ピーク (のち初代イングルビー子爵) |
1951年10月 - 1955年4月 |
スコットランド担当大臣 | ![]() |
ジェイムズ・ステュアート (のち初代フィンドホーンのステュアート子爵) |
1951年10月 - 1955年4月 |
商務庁長官 | ![]() |
ピーター・ソーニークロフト (のちソーニークロフト男爵) |
1951年10月 - 1955年4月 |
脚注
注釈
- ^ チャーチル本人の言によれば、「女王の美しいお顔と魅力、そのお優しさから、私はほとんど受理しかけるところだったが、やはり私は『ウィンストン・チャーチル』として死なねばならぬと思い、ご辞退した。」とのこと[7]。
出典
参考文献
- 山上, 正太郎『ウィンストン・チャーチル 二つの世界戦争』誠文堂新光社、1960年。ASIN B000JAP0JM。
- 村岡, 健次、木畑, 洋一『イギリス史〈3〉近現代』山川出版社〈世界歴史大系〉、1991年。ISBN 978-4634460300。
- 君塚, 直隆『エリザベス女王 史上最長・最強のイギリス君主』中央公論新社、2020年。 ISBN 978-4121025784。
第2次チャーチル内閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)
「ウィンストン・チャーチル」の記事における「第2次チャーチル内閣」の解説
こうして6年ぶりに保守党が政権復帰し首相に返り咲くことになったチャーチルだったが、彼はすでに77歳になっており、しばしば心臓発作を起こすなど健康な状態とは言い難かった。任期中の1952年2月6日にジョージ6世が崩御し、エリザベス王女がエリザベス2世として女王に即位した。1953年には女王よりガーター勲章を授与され、以降「サー・ウィンストン・チャーチル」となる。 政権奪還後ただちに労働党政権下で国有化された鋼鉄産業を民営化したが、一方でそれ以外の労働党政権の社会改良政策は継承した。住宅地方大臣ハロルド・マクミランは住宅建設に力を入れ、1年間に30万戸の建設という先の総選挙の公約を達成した。 1953年3月のソ連でのスターリンの死を契機として、外交面でもチャーチルの共産主義国に対する融和的態度が見られるようになった。彼が軟化したのは原爆の時代に世界大戦を起こしたらイギリスの生存が危ういと考えたためだった。東西は「雪解け」と呼ばれる緊張緩和の時代へ向かっていき、同年7月には朝鮮戦争が終結している。さらに1954年7月にはインドシナ戦争をめぐるジュネーヴ協定が締結されたが、イギリスはアメリカの軍事介入を抑えてこの協定締結を成功させる役割を果たした。 しかしその一方でチャーチルは反共政策も粛々と進めた。西ドイツを反共の防波堤にするために同国の再軍備を促し、それに関連して1954年11月24日に「大戦が終わる直前、私はモントゴメリー卿に投降したドイツ兵の武器を慎重に蓄えるよう命令を出したが、これはソビエトが前進してきた場合、ドイツ兵を再武装させて我々と共闘させるためであった」という裏話を暴露し、国際的な反響を呼んだ。また原爆開発を推進し、1952年10月にはオーストラリア沖で核実験を行った(ハリケーン作戦)。米ソに次ぐ第3の核保有国としての存在感を世界に知らしめた。1954年にはアジア反共体制の東南アジア条約機構(SEATO)に参加した。 一方植民地については、帝国主義者チャーチルといえども時代の趨勢には抗えず、アトリー前政権に引き続いて、失われていく一方だった。1951年にはエジプトとの関係が緊迫する中、エジプトを反ソ陣営に引きとめるためにイギリス軍をエジプトから撤兵させることになった。イランとは引き続き、石油国有化をめぐって争い続けたが、1954年にはイギリス・イラン協定という妥協案を呑む羽目となった。1952年にケニアでマウマウ団の乱が勃発すると、チャーチルは空軍をも出動させて反英ゲリラの鎮圧にあたった。だが懐柔のために様々な植民地支配の緩和を行うことも余儀なくされ、最終的にはチャーチル退任後の1963年12月にケニアは独立した。 1953年に『第二次大戦回顧録』などでノーベル文学賞を受賞。現職の国家指導者が同賞を受けたのは、現在までチャーチルのみである(後にシャルル・ド・ゴールがフランス大統領在任中の1963年に候補となっていたことが明らかになった)。1954年11月30日に80歳を迎え、グラッドストンに次ぐ高齢首相となった。しかしこの頃にはチャーチルの耳はすっかり遠くなり、閣議で昔話をとりとめもなく語りだすばかりになっていた。多くの閣僚がチャーチルを引退させる必要を痛感していた中、ついにマクミランがチャーチルに引退を勧めた。チャーチルは素直にこれを了承し、1955年4月に首相職を辞した。後任の首相・保守党党首になったのは外相サー・アンソニー・イーデンだった。退任にあたってエリザベス2世女王は「伯爵位を与える」との叡慮を示したが、チャーチルは「庶民院議員として政治家を続けること」を希望し、これを拝辞した。
※この「第2次チャーチル内閣」の解説は、「ウィンストン・チャーチル」の解説の一部です。
「第2次チャーチル内閣」を含む「ウィンストン・チャーチル」の記事については、「ウィンストン・チャーチル」の概要を参照ください。
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