第2次チャーチル内閣とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 第2次チャーチル内閣の意味・解説 

第2次チャーチル内閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/23 23:00 UTC 版)

第2次チャーチル内閣
イギリス 第77代内閣
1951年 - 1955年
第2次チャーチル内閣の閣僚
成立年月日 1951年10月26日
終了年月日 1955年4月5日
組織
国王 ジョージ6世1951年 - 1952年
エリザベス2世1952年 - 1955年
首相 ウィンストン・チャーチル
副首相 アンソニー・イーデン
総閣僚数 149人
与党 保守党
議会における地位 過半数
321/625
詳細
成立直前の選挙 1951年イギリス総選挙
議会任期 第40議会
前内閣 第2次アトリー内閣
次内閣 イーデン内閣

第2次チャーチル内閣(だいにじチャーチルないかく)は、ウィンストン・チャーチルが第63代首相に任命され、1951年10月26日から1955年4月7日まで続いたイギリスの内閣

1951年イギリス総選挙保守党が勝利したことによって成立した。また、この内閣の時に国王ジョージ6世崩御し、女王エリザベス2世即位した。

概要

1951年10月、サー・ウィンストン・チャーチル率いる保守党は総選挙で勝利し、政権奪還を果たした[1]。しかしチャーチルはすでに76歳になっており、しばしば心臓発作を起こすなど健康面で問題を抱えていた[2][1]

政権奪還後ただちに労働党政権下で国有化された鉄鋼業を民営化したが、それ以外のアトリー内閣の社会改良政策は継承した。住宅地方大臣ハロルド・マクミランは住宅建設に力を入れ、1年間に30万戸の建設という先の総選挙の公約を達成した[3]。また、政権下で自国製の原爆が完成し、1952年10月にオーストラリア沖で核実験を行った(ハリケーン作戦[4]

外交面ではインドシナ戦争のジュネーブ協定で仲介役を果たしたほか、1954年にはアジア反共体制の東南アジア条約機構(SEATO)に参加した[5]

任期中の1952年2月6日に国王ジョージ6世が崩御し、エリザベス王女がエリザベス2世として女王に即位した。翌年、政権下でエリザベス2世の戴冠式が行われた。

戴冠式から3週間後(1953年6月)、イタリアのアルチーデ・デ・ガスペリ首相訪英に伴う晩餐会が催されたが、この直後、チャーチルは脳梗塞にたおれた。翌日の閣議でも呂律が回らないほどだったが、このときは奇蹟的に回復した[6]。老齢のチャーチルは1954年4月に首相を辞任し、同月6日に政界を引退した[7]。前日には、エリザベス2世がダウニング街10番地を訪れて、公爵位をチャーチルに授与する叡慮を示したが、チャーチルはこれを辞退した[注釈 1][7][3]

後任の首相にはアンソニー・イーデン外務大臣が就くこととなる。

閣内大臣一覧

職名 写真 氏名 在任期間
首相

第一大蔵卿

サー・ウィンストン・チャーチル 1951年10月 - 1955年4月
大法官 ギャヴィン・シモンズ
(のち初代シモンズ子爵)
1951年10月 - 1954年10月
初代キルミュア子爵
デイヴィッド・ファイフ

(のち初代キルミュア伯爵)
1954年10月 - 1955年4月
枢密院議長
貴族院院内総務
初代ウールトン男爵
フレデリック・マーキス英語版
1951年10月 - 1952年11月
第5代ソールズベリー侯爵
ロバート・ガスコイン=セシル
1952年11月 - 1955年4月
王璽尚書
庶民院院内総務
第5代ソールズベリー侯爵
ロバート・ガスコイン=セシル
1951年10月 - 1952年
ハリー・クルックシャンク英語版
(のち初代クルックスシャンク子爵)
1952年 - 1955年4月
財務大臣 ラブ・バトラー
(のちバトラー男爵)
1951年10月 - 1955年4月
内務大臣 サー・デイヴィッド・ファイフ
(在任中に初代キルミュア子爵に叙される)
1951年10月 - 1954年10月
グウィリアム・ロイド=ジョージ
(のち初代テンビー子爵
1954年10月 - 1955年4月
外務大臣 サー・アンソニー・イーデン
(のち初代エイヴォン伯爵
1951年10月 - 1955年4月
植民地大臣 オリヴァー・リトルトン
(のち初代シャンドス子爵
1951年10月 - 1954年7月
アラン・レノックス=ボイド英語版
(のち初代マートンのボイド子爵英語版
1954年7月 - 1955年
農業・漁業・
食糧大臣英語版
サー・トマス・ダグデイル英語版
(のち初代クラソーン男爵
1951年10月 - 1954年7月
デリック・ヒースコート=エイマリー英語版
(のち初代エイマリー子爵)
1954年7月 - 1955年
コモンウェルス
担当大臣英語版
初代イスメイ男爵
ヘイスティングス・イスメイ
1951年10月 - 1952年3月
第5代ソールズベリー侯爵
ロバート・ガスコイン=セシル
1952年3月 - 11月
フィリップ・カンリフ=リスター英語版
(のち初代スウィントン伯爵
1952年11月 - 1955年
教育大臣英語版 フローレンス・ホーズブラ英語版
(のちホーズブラ女男爵)
1951年10月 - 1954年10月
デイヴッド・エクルズ英語版
(のち初代エクルズ子爵
1954年10月 - 1955年
住宅・地方自治大臣英語版 ハロルド・マクミラン
(のち初代ストックトン伯爵
1951年10月 - 1954年10月
ダンカン・サンズ英語版
(のちダンカン=サンズ男爵)
1954年10月 - 1955年
厚生労働大臣英語版 サー・ウォルター・モンクトン英語版
(のち初代ブレッチリーのモンクトン子爵英語版
1951年10月 - 1955年4月
ランカスター公領担当大臣 フィリップ・カンリフ=リスター 1951年10月 - 1952年11月
初代ウールトン男爵
フレデリック・マーキス
1952年11月 - 1955年
年金大臣英語版 オズバート・ピーク英語版
(のち初代イングルビー子爵英語版
1951年10月 - 1955年4月
スコットランド担当大臣 ジェイムズ・ステュアート英語版
(のち初代フィンドホーンのステュアート子爵英語版
1951年10月 - 1955年4月
商務庁長官 ピーター・ソーニークロフト英語版
(のちソーニークロフト男爵)
1951年10月 - 1955年4月

脚注

注釈

  1. ^ チャーチル本人の言によれば、「女王の美しいお顔と魅力、そのお優しさから、私はほとんど受理しかけるところだったが、やはり私は『ウィンストン・チャーチル』として死なねばならぬと思い、ご辞退した。」とのこと[7]

出典

  1. ^ a b 君塚 (2020), p. 55.
  2. ^ 村岡 & 木畑 (1991), p. 365-366.
  3. ^ a b 村岡 & 木畑 (1991), p. 367.
  4. ^ 山上 (1960), p. 233.
  5. ^ 山上 (1960), p. 231,233.
  6. ^ 君塚 (2020), p. 72.
  7. ^ a b c 君塚 (2020), p. 73.

参考文献


第2次チャーチル内閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 10:08 UTC 版)

ウィンストン・チャーチル」の記事における「第2次チャーチル内閣」の解説

こうして6年ぶりに保守党政権復帰し首相に返り咲くことになったチャーチルだったが、彼はすでに77歳になっており、しばしば心臓発作起こすなど健康な態と言い難かった任期中1952年2月6日ジョージ6世崩御しエリザベス王女エリザベス2世として女王即位した1953年には女王よりガーター勲章授与され以降「サー・ウィンストン・チャーチル」となる。 政権奪還後ただちに労働党政権下で国有化され鋼鉄産業民営化したが、一方でそれ以外労働党政権社会改良政策継承した住宅地大臣ハロルド・マクミラン住宅建設力を入れ1年間30万戸建設という先の総選挙公約達成した1953年3月ソ連でのスターリンの死を契機として、外交面でもチャーチル共産主義国対す融和的態度見られるようになった。彼が軟化したのは原爆時代世界大戦起こしたイギリス生存が危ういと考えためだった東西は「雪解け」と呼ばれる緊張緩和時代向かっていき、同年7月には朝鮮戦争終結している。さらに1954年7月にはインドシナ戦争をめぐるジュネーヴ協定締結されたが、イギリスアメリカの軍事介入抑えてこの協定締結成功させる役割果たした。 しかしその一方でチャーチル反共政策粛々と進めた西ドイツ反共防波堤にするために同国再軍備促し、それに関連して1954年11月24日に「大戦が終わる直前、私はモントゴメリー卿に投降したドイツ兵の武器慎重に蓄えるよう命令出したが、これはソビエト前進してきた場合ドイツ兵を再武装させて我々と共闘させるためであった」という裏話暴露し国際的な反響呼んだ。また原爆開発推進し1952年10月にはオーストラリア沖で核実験行ったハリケーン作戦)。米ソに次ぐ第3核保有国としての存在感世界知らしめた。1954年にはアジア反共体制東南アジア条約機構SEATO)に参加した一方植民地については、帝国主義者チャーチルといえども時代趨勢には抗えず、アトリー政権引き続いて失われていく一方だった。1951年にはエジプトとの関係緊迫する中、エジプト反ソ陣営に引きとめるためにイギリス軍エジプトから撤兵させることになったイランとは引き続き石油国有化めぐって争い続けたが、1954年にはイギリス・イラン協定という妥協案を呑む羽目となった1952年ケニアマウマウ団の乱勃発すると、チャーチル空軍をも出動させて反英ゲリラ鎮圧あたった。だが懐柔のために様々な植民地支配緩和を行うことも余儀なくされ、最終的にチャーチル退任後の1963年12月ケニア独立した1953年に『第二次大戦回顧録』などでノーベル文学賞受賞現職国家指導者が同賞を受けたのは、現在までチャーチルのみである(後にシャルル・ド・ゴールフランス大統領在任中の1963年候補となっていたことが明らかになった)。1954年11月30日80歳を迎えグラッドストンに次ぐ高齢首相となった。しかしこの頃にはチャーチルの耳はすっかり遠くなり、閣議昔話とりとめもなく語りだすばかりになっていた。多く閣僚チャーチル引退させる必要を痛感していた中、ついにマクミランチャーチル引退勧めたチャーチル素直にこれを了承し1955年4月首相職辞した後任首相保守党党首になったのは外相サー・アンソニー・イーデンだった。退任にあたってエリザベス2世女王は「伯爵位を与える」との叡慮示したが、チャーチルは「庶民院議員として政治家続けること」を希望し、これを拝辞した。

※この「第2次チャーチル内閣」の解説は、「ウィンストン・チャーチル」の解説の一部です。
「第2次チャーチル内閣」を含む「ウィンストン・チャーチル」の記事については、「ウィンストン・チャーチル」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「第2次チャーチル内閣」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第2次チャーチル内閣」の関連用語

第2次チャーチル内閣のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第2次チャーチル内閣のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの第2次チャーチル内閣 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのウィンストン・チャーチル (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS