第2次ダービー伯爵内閣
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「エドワード・スミス=スタンリー (第14代ダービー伯爵)」の記事における「第2次ダービー伯爵内閣」の解説
この後、パーマストン子爵が殺人共謀罪をめぐる採決で敗れて総辞職したことで、1858年2月にダービー伯爵に2度目の大命があった。しかし保守党は、庶民院の総議席の3分の1程度の議席しか有していなかったので、野党が団結したら即座に倒されてしまう不安定な内閣だった。 息子のスタンリー卿(後の第15代ダービー伯爵)を植民地大臣に任じ、前パーマストン子爵内閣が鎮圧したインド大反乱後のインドの統治システムの構築に取り組んだ。女王や野党との協議の末に、インドをイギリス東インド会社統治からイギリス女王(実質的には「女王陛下の政府」)の直接統治へ移行した。 また、ユダヤ人がキリスト教徒としての宣誓を行えないがために、例え選挙で当選しても議場に入れない状態を解消すべく、庶民院院内総務ディズレーリとともに貴族院と庶民院でそれぞれ新しい宣誓の形を定めた。 さらに、ディズレーリの主導で選挙法改正に取り組んだ。ディズレーリは賃料価値にかかわらず男子戸主全員に選挙権を与える制度を欲していたが、保守党内の選挙権拡大慎重派を考慮して、10ポンド以上の賃料価値の住居の所有者、あるいは20ポンド以上の賃料価値の住居の間借人に選挙権を認めるとの改正を目指した。選挙権拡大に慎重なダービー伯爵はさらに10ポンド以上のコンソル公債を所持しているか、あるいは60ポンド以上の銀行預金がある者という条件も加えさせている。 1859年2月にディズレーリが庶民院に選挙法改正法案を提出したが、保守派からは選挙権を拡大しすぎると批判され、一方急進派からは選挙権拡大が手ぬるすぎると批判されて4月1日に否決された。これを受けてダービー伯爵は解散総選挙(英語版)に打って出て、30議席ほど保守党の議席を上済みしたが、過半数には届かず、6月には議会で敗北を喫して総辞職する羽目となった。 この退任の際に、女王より与野党の折衝の功を労われてガーター勲章を授与された。
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