第2次セミノール戦争
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「セミノール戦争」の記事における「第2次セミノール戦争」の解説
セミノールは移住に抵抗するであろうという認識がしみ込んだ時、フロリダは軍備を整え始めた。セミノールが農園と民兵の幌馬車を攻撃した時、住民は安全に逃げた。フランシス・L・デード(en:Francis L. Dade)少将指揮下の総計108名の2中隊が、キング砦を補強するためにブルック砦から派遣された。1835年12月28日、セミノールは兵士を要撃して司令を破壊した。2名の兵士だけがブルック砦に戻り、1名は数日後に負傷により死亡した。この後数か月にわたって、クリンチ、ゲーンズ、ウィンフィールド・スコットらの司令官と、知事のリチャード・キース・コール(en:Richard K. Call)は、多くの軍を率いてセミノールを追跡したが無駄に終わった。そうこうしているうちにセミノールは州全体で暴れ出し、孤立した農場、開拓地、農園、陸軍の要塞を攻撃し、ケープ・フロリダの灯台(en:Cape Florida Light)に放火までした。供給の問題と夏期に起こる高い確率の疾病のため、軍はいくつかの砦を捨てた。 1836年の終わり、トーマス・ジェサップ少将は戦争の指揮に配属された。ジェサップは新しいアプローチを戦争にもたらした。セミノールを力づくで押さえ込むために大きい縦隊を出す型通りの戦いの代わりに、彼はセミノールをすり減らすことに集中した。これはフロリダに大きな軍の駐留を必要とし、ジェサップは結局、9,000人以上の軍を指揮することになった。軍のおよそ半分は志願兵と民兵だった。それには、海岸、内陸河川、および小川をパトロールさせるために、海兵隊の旅団、海軍、Revenue-Marineの人員も含まれていた。 1837年1月、戦争に変化があった。様々な作戦によって、多くのセミノールとブラック・セミノールが殺され、捕らえられた。1月の終わり、数名のセミノールの酋長がジェサップにメッセンジャーを送り、休戦が整われた。3月に、「降伏」はミカノピーを含む数人の酋長によって合意され、セミノールが西部へ移住する際に、彼らの仲間と「彼らの黒人奴隷、彼らの誠実な特性」も同伴されることが規定された。5月の終わりまで、ミカノピーを含む多くの酋長が降伏した。しかし2人の重要なリーダー、オセオラとサム・ジョーンズ は降参せず、猛烈に移住に反対した。6月2日、彼ら2名のリーダーは、およそ200人の追随者とともに、防備が不十分なブルック砦の捕虜キャンプに侵入し、そこで降伏した700名のセミノールを連れ去った。戦争は再び起こり、ジェサップは二度とインディアンの言葉を信じなかった。ジェサップの命令で、コアクーチェ(ワイルドキャット)、オセオラ、およびミカノピーを含む数人のインディアンのリーダーは、彼らが休戦会議に出廷した時に捕らえられた。コアクーチェと他の多くの捕虜は、セントオーガスティンのマリオン砦の仲間たちによって逃げることができたが、オセオラは彼らと一緒に逃げなかった。 ジェサップは複数の縦隊による半島の一掃を組織化し、セミノールはさらに南に追いやられた。1837年のクリスマスの日、ザカリー・テイラー大佐の800名の縦隊は、オキーチョビー湖の北の岸で、およそ400セミノールの大群に遭遇した。サム・ジョーンズ、アリゲーター、そして逃亡したばかりのコアクーチェが率いるセミノールは、ソーグラス(カヤツリグサ科の植物)に囲まれたハンモックで良い位置についたが、セミノールは結局ハンモックから追い出され、湖を渡って逃げた。それでもテイラーの軍は、26名が殺され112名が負傷した。一方でセミノールの犠牲者は11名の死者、14名の負傷者であった。それにもかかわらず、このオキーチョビー湖の戦い(en:Battle of Lake Okeechobee)は、テイラーと彼の軍隊の大勝利として迎えられた。 1月の終わり、ジェサップの軍はセミノールの大集団をオキーチョビー湖の東まで追いつめた。セミノールは当初ハンモックに陣取っていたが、砲撃によって彼らは広い小川の向こう側に退却し、そこで別の布陣を組んだ。最終的にセミノールは退却し、多くの死傷者を出して、ロクサハッチーの戦いは終了した。1838年2月、セミノールの酋長のタスキギーとハレック・ハジョは、彼らがオキーチョビー湖の南に滞在することができるなら休戦をしてもよいという提案を持ってジェサップに接近した。ジェサップはその考えを支持したが、承認のためには連邦政府に文書を書かなければならなかった。酋長と彼らの追随者は回答を待っている間、軍の近くに野営した。連邦の陸軍長官がこの考えを拒絶したとき、ジェサップはキャンプの500人のインディアンを取り押さえ、彼らを西部に送還した。 5月、指揮の軽減を求めたジェサップの要求は承諾され、ザカリー・テイラーはフロリダの陸軍の司令を引き受けた。減少したフロリダの兵力とともに、テイラーは北フロリダ全域に、30km(20マイル)おきにたくさんの小さな杭を作り、北フロリダにセミノールを進入させないようにすることに集中した。その冬はかなり静かであった。事件と小競り合いは引き続き起こったが、主要な動きはなにもなかった。ワシントンとアメリカ全土では、戦争を支援する考えが浸透していた。多くの人々が、セミノールがフロリダにいる権利を得たと思い始めていた。戦争は終わらず、コストも甚大だった。マーティン・ヴァン・ビューレン大統領は、セミノールと新しい条約を交渉するため、陸軍総司令官のアレクサンダー・マコムを派遣した。1839年5月19日、マコムは、セミノールとの合意に達したと発表した。セミノールは南フロリダでの居留地と引き換えに休戦することになった。 1839年の夏が過ぎたころ、協定は成立しているように思えた。7月23日、およそ150人のインディアンがカルーサハチー川(en:Caloosahatchee River)の上の交易所を攻撃した。警備していたのはウィリアム・ハーニー大佐率いる23名の分遣隊だった。ハーニー大佐を含む数名の兵士が川に達して、逃げるためのボートを見つけることができたが、ほとんどの兵は交易場の数人の民間人とともに殺された。多くの人がこの攻撃を、チャカイカが率いる「スペイン」のインディアンによるものと主張し、他の者は、実際にマコムとの合意に達したミカズキの一団を率いるサム・ジョーンズを疑った。サム・ジョーンズは、33日後に、この攻撃の責任者をハーニーに引き渡すことを約束した。その時が来る前に、サム・ジョーンズのキャンプを訪問した2名の兵士が殺された。 新しい戦術の試みとして、陸軍はインディアンを追跡するために犬をブラッドハウンド(en:Bloodhound)に代えていたが、この成果は悪かった。テイラーが始めた北フロリダの防塞と巡回の制度は、セミノールを活動的にしただけで、地域から彼らを追い出すことはできなかった。1849年5月、以前の指揮官よりもずっと長い間フロリダ戦争に務めたザカリー・テイラーは、転勤の要求を承諾され、今度はウォーカー・キース・アーミステッド(en:Walker Keith Armistead)准将に引き継がれた。夏の間、活発に行動し、アーミステッドはすぐに好戦的になった。陸軍はセミノールの隠れキャンプを求めて、草原を焼き払い、馬、牛、豚を追い払っていた。夏のなかばまでには、陸軍は500エーカーのセミノールの耕作地を破壊していた。 海軍は、川や小川、エバーグレーズの中で活躍する船員と海兵隊員が、戦争でより大きい役割を果たしていた。1839年後半に、海軍中尉のジョン・T・マクラフリンは、フロリダで展開する陸海軍共同の水陸両用の軍の司令を与えられた。マクラフリンはフロリダキーズ諸島(en:Florida Keys)の北方のティー・テーブル・キーに彼の基地を設立した。マクラフリンの軍隊は、1840年12月から1841年1月の中旬まで移動し、丸木舟で東から西までエバーグレーズを交差して横断した最初の白人の集団となった。
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