合衆国統治第1期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/01 02:46 UTC 版)
要塞をスペインから受取ると、アメリカ人はその名前をマリオン要塞 に改称した。独立戦争の英雄で、「沼地の狐("The Swamp Fox")」のあだ名で呼ばれたフランシス・マリオン将軍の栄誉を称えたものである。この時期、アメリカ人は要塞にわずかな構造的変更を行なった。貯蔵室の多くは重いドアと窓の鉄格子を取付け檻房(囚人室)に改造された。また堀の一部は埋立てられ、海岸防衛システムの一部として砲台に改修された。元々あったスペインの防潮堤は地面の水準まで剥ぎ取られ、新たな防潮堤が元の防潮堤のすぐ海側に建設された。この時、新設された水際砲台内側にある、堀への取水口区画に焼玉式焼夷弾(hotshot)の加熱炉も建設された。敵の木造船を炎上させるために砲弾は加熱された。 1837年10月、第2次セミノール戦争(英語版)の期間中、セミノールの族長オシーオウラ(英語版)(Osceola) がアメリカ人によって投獄されたのは白旗を掲げて、ペイトン要塞(英語版)近くで行われた和平会談に参加中の出来事だった。 オシーオウラは手下達とともにマリオン要塞に投獄された。その中にはユーチー・ビリー(英語版)およびen:Ee-mat-la(キング・フィリップ)とコアクーチー(英語版)(Coacoochee)父子 等がいた。オシーオウラと父子は後にチャールストン港のサリバンズアイランドにあるムールトリー要塞(英語版)に送られた。 ユーチー・ビリーは1837年9月10日に捕らえられ、11月29日に要塞で死んだ。彼の頭蓋骨は骨董品としてフレデリック・ウィードン(Frederick Weedon)医師によって保存された。医師はオシーオウラがムールトリー要塞で死んだ後、首を切り取って防腐剤の中に保存した人物である。 1837年11月19日の夜、コアクーチーと19人のセミノール(内2人は女性)はマリオン要塞から脱走した。コアクーチーは後に愉快な物語を語った。彼と友人の Talmus Hadjo だけが檻房の高い位置に開いていた20センチの銃眼を擦り抜け、あり合わせのロープで空堀へ滑り降りて脱獄したと。 (実際は Talmus Hadjo は公式の囚人リストには載っていなかった。)しかし脱獄は現実に影響を与えた。脱獄囚達はバンド の野営地(セントオーガスティンの南約65キロメートル、トモカ川(英語版)源流部)まで戻った。間違った取扱いのせいで彼らは戦闘の継続を誓い、戦争は4年以上長引くことになった。コアクーチーが脱獄した檻房は要塞で長く伝えられる公式な教訓の一部となった。
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