合衆国軍人として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 04:21 UTC 版)
「ストーンウォール・ジャクソン」の記事における「合衆国軍人として」の解説
1842年、ジャクソンはウェストポイントの陸軍士官学校に入校した。それまでの教育環境のせいで入校試験では苦労し、初年度は落第すれすれの成績だった。だがジャクソンは士官候補生の中で誰よりも懸命に勉学に励み、1846年の卒業時には59人中17位まで席次を上げた。同級生たちは、もし学校があと1年長かったらジャクソンは首席を取っていただろうと回想している。 アメリカ陸軍では最初に第1砲兵連隊に配属となり、早々に1846年からの米墨戦争に出征している。このときジャクソンは果敢な戦いぶりで2度も名誉昇進を果たした。そしてメキシコではロバート・E・リーとも友人となった。 1851年の春、ジャクソンはレキシントンにあるバージニア軍学校の教官に就任した。担当教科は自然哲学(今日で言う数学)と砲兵術であった。ジャクソンの指導内容の基礎的な部分に関しては今なお同校で用いられているほどである。ただ教官としては非常に厳格であったので、訓練生たちの間ではあまり人気は無かったらしい。レキシントンでジャクソンは長老派教会が黒人たちのために開いていた日曜学校の手伝いもしていた。ジャクソンは生徒たちからたいへん尊敬を受けていたと言われている。このころジャクソン家では6人の奴隷を所有していたが、そのうちアルバートとエミーは自分からジャクソンに対して買ってくれるよう頼んできたのだったし、エンマは身寄りの無い孤児を引き受けたものであった。 1853年、ワシントンカレッジ(現在のワシントン・リー大学)の学長の娘であったエリノア・ジャンキンと最初の結婚をしたが、長男の出産のときに産後の肥立ちが悪く母子ともに亡くなった。1857年にはマリー・アンナ・モリソンと再婚した。1858年に長女が生まれたが乳児のうちに亡くなっている。1862年には次女のジュリア・ローラが生まれた。 1859年、過激な奴隷解放主義者のジョン・ブラウンが蜂起するというハーパーズフェリー蜂起事件が発生する。このときジャクソンはジョン・ブラウンの処刑場の警備を命じられ、軍学校の訓練生で編成された臨時部隊の砲兵隊の指揮官としてチャールズタウンまで出動している。時代を覆う戦雲は濃くなっていった。1861年、全ての南部人の運命を変転させた南北戦争が勃発する。
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