合衆国統治第2期
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要塞は1862年3月11日、北軍によって取り戻された。それはUSSウォバシュ(英語版)が湾に入り、南軍がセントオーガスティン市から撤退したことが判明した日付である。市の指導部は市街地を破壊から守るため降伏する意志を持っていた。そのため、市と要塞は一発も撃つことなく取り戻された。要塞稼働史の残りの期間、マリオン要塞は軍刑務所として利用された。 1875年の初め、多くのアメリカ先住民の囚人が西部で起きたインディアン戦争の余波でマリオン要塞に収監された。(平原インディアン(英語版)が多かった) 多くが要塞で死んだ。囚人の中ではカイオワ族のホワイト・ホース (酋長)(英語版) とシャイアン族のグレイ・ベアード(英語版)。 この期間、リチャード・ヘンリー・プラット(英語版)(南北戦争に従軍)が囚人を監督し、彼らの環境改善に尽力した。囚人の足枷を廃止し檻房から出ることを許可した。 プラットは囚人により多くの自治を与える方法を開発し、教育的、文化的カリキュラムを整えようとした。南北戦争勃発によりセントオーガスティンから教員や宣教師を務めていた北部人がいなくなったため、彼らが影響力の中心になった。プラットはインディアン囚人に英語、キリスト教およびアメリカ文化の諸要素を教えるボランティアを募集した。プラットとほとんどのアメリカの当局者は変わりゆく社会の中でインディアンたちが生き延びていくために白人社会への同化が必要だと信じていた。 人々は芸術製作に勇気づけられもした;彼らは何百もの絵を創作した。レッジャーアート(英語版)(Leadger Art) はマリオン要塞にいた平原インディアンの芸術家たちによって始まったものである。レッジャーアートのコレクションの一部はスミソニアン博物館に収蔵され、オンラインでも閲覧できる。 先住民の教育の進展に促され、市民たちは基金を立ち上げ20人近くの元囚人を保釈後、を大学に送った。17人はハンプトン・インスティテュート(現、ハンプトン大学(英語版))とヒストリカリー・ブラック・カレッジ(英語版)に進学した。それ以外は資金援助を得てニューヨーク州の私立カレッジで教育を受けた。ニューヨーク州に進学した中には、デイヴィッド・ペンドルトン・オーカーヘイター(英語版)がいた。これは後に名付けられた名前で、ペンドルトン上院議員(英語版)とその妻に資金援助されていた。オーカーヘイターは学業に励み、米国聖公会(エピスコパル教会)の司祭として聖職叙品(任命)された。彼はインディアン部族の宣教師として働くため西部に戻った。オーカーヘイターは後にエピスコパル教会によって聖人に列せられた。 マリオン要塞でのプラットの経験はプラットが始めたアメリカ・インディアンのための寄宿学校を生み出そうとする運動の基礎になった。これらの学校は建前では先住民の教育目的だったが、先住民の子供たちが自分たちの言葉を話すことも、自分たちの宗教も禁じられていた。多くの子供たちは食料配給を打ち切るという脅しによって、家族から強制的に引き離された。子供たちが家に送る手紙は検閲され、多くの子供たちは夏の間、帰宅を許されず農業労働キャンプ(agricultural labor camps)に連れて行かれた。多くの人がアメリカ・インディアンの寄宿学校を無数の酷使と児童労働法違反で告発した。さらに「先住民文化の組織的絶滅(cultual genocide)」であるとして告発された。プラットの運動はカーライル・インディアン実業学校(英語版) の創立で始まった。それは450以上あるアメリカ・インディアン寄宿学校の最初の学校だった。 1886年から1887年にかけて、推定で491人のアパッチがマリオン要塞に収監されていた;その多くはチリカーワ(英語版)とアリゾナのウォームスプリングス・アパッチ(どちらもアパッチ族のバンド)だった。男は82人で残りは女子供だった。男の内14人(チャトゥー(英語版)も含まれる)はアメリカ陸軍にアパッチ・スカウト(英語版)として雇用されていた。チリカーワの中でジェロニモの妻を含む彼のバンドのメンバーがいた。ジェロニモ自身は降伏時の合意条件違反の罪でピケンズ要塞(英語版)(フロリダ州西部ペンサコーラ近郊)に送られた。収監中、十分なスペースがなかったので多くの囚人達がテントでの野営を強いられた。少なくとも24人のアパッチが囚人として死んだ。彼らはノース・ビーチ に埋葬された。 1898年、200人以上の米西戦争の脱走兵がマリオン要塞に投獄された。これが現役の基地としては要塞の最後の利用となった。1900年、要塞は5つの異なる国旗の下で205年に渡って役務を提供し続けた後、静かに現役を退いた。 1924年、要塞はナショナル・モニュメントに指定された。1933年、陸軍省から国立公園局に所管変更された。1942年、スペインの歴史遺産に敬意を表して、連邦議会は公式に要塞の名前を元のサンマルコス砦に戻した。1966年10月15日国立公園局の歴史的資産として、サンマルコス砦は歴史登録財(NRHP)に登録された。国立公園局はサンマルコス砦をマタンザス要塞ナショナル・モニュメント(英語版)と一括して管理している。1975年、米国土木学会により歴史的土木工学ランドマーク(英語版)に指定された。 国立公園局に所管が移って以来、サンマルコス砦はポピュラーな観光名所になっている。それはセントオーガスティンの下町10,100平方メートルを占めている。
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