秘密委員会
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秘密委員会(ひみついいんかい、ロシア語: Негласный комитет、ラテン文字転写の例:Neglasnyy komitet[1])は、ロシア皇帝アレクサンドル1世の治世当初に設置された非公式の諮問機関。委員会にはアレクサンドル1世の「若き友人たち」と呼ばれたパーヴェル・ストロガノフ、ニコライ・ノヴォシリツェフ、ヴィクトル・コチュベイ、アダム・イエジィ・チャルトリスキら、西欧の進歩的啓蒙思想に通じた青年貴族たちも含まれていた。
秘密委員会は1801年6月から1803年下旬まで続いた。委員会には上述の皇帝の「若き友人たち」を含む皇帝の側近によって組織された。また、委員会に正式に所属してはいなかったが、皇帝の政治顧問であったミハイル・スペランスキーも秘密委員会の討議に加わっている。
秘密委員会は、帝国の統治機構改革を議論する場として、元老院改革や1802年の省庁設置などの議題を審議した。また、秘密委員会は農奴問題についても注意を払い、土地政策に関する2、3の勅令を準備した。
脚注
- ^ 英語版ウィキペディアでは、表題が「Private Committee」、本文冒頭で「Privy Committee」と記されている。
参考文献
- А. В. Демкин. (2012). Дней Александровых прекрасное начало. Внутренняя политика Александра I в 1801-1805 гг. М.: Кучково поле. ISBN 978-5-9950-0280-2。
- А. Е. Пресняков. (1990). Российские самодержцы. М.: Книга. ISBN 5-212-00489-6。
- "Неофициальный комитет". ブロックハウス・エフロン百科事典: 全86巻(本編82巻と追加4巻) (ロシア語). サンクトペテルブルク. 1890–1907.
関連項目
秘密委員会
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「アレクサンドル1世 (ロシア皇帝)」の記事における「秘密委員会」の解説
帝位に就いたアレクサンドル1世は、早速「自由主義的」な改革に着手した。彼は、非公式の諮問機関として秘密委員会を設立した。この委員会は、アレクサンドルの「若き友人たち」、すなわちパーヴェル・ストロガノフ、ニコライ・ノヴォシリツェフ、ヴィクトル・コチュベイ、アダム・イエジィ・チャルトリスキら、西欧の進歩的啓蒙思想に通じた青年貴族たちによって組織された。 秘密委員会はアレクサンドル1世自身が議長となって、活発な議論が行われた。議論はロシア帝国の改造、すなわち専制から法的秩序の確立のため、憲法を中心とする立憲君主制の導入、農奴制の廃止、教育制度の改革といった問題について討議がなされた。秘密委員会での議論はその多くが空論のまま終わった感があるが、それでもいくつかが具現化された。中央官庁の官制改革が実施され、ピョートル1世によって創設された参議会(コレギア)制は廃止され、代わって外務、陸軍、海軍、内務、大蔵、文部(国民啓蒙)、司法、商務の8省庁が設置された。各省には大臣が置かれ、連絡・調整機関として大臣委員会が組織された。 秘密委員会では農奴解放、土地改革についても議論を繰り広げたが、パーヴェル・ストロガノフの農奴解放推進論は結局、1861年のアレクサンドル2世による農奴解放令を待たなければならなかった。この段階では、1803年2月20日の勅令で領主が自発的に農奴を土地つき、有償で解放し、自由耕作民とするという限定的な内容であった。 アレクサンドル1世と秘密委員会の構想した改革は、貴族層を中心に保守派の反発を招いた。また、彼の「若き友人たち」も現実に直面し、1807年に秘密委員会は解散を余儀なくされた。
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