農奴解放案とは? わかりやすく解説

農奴解放案

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/29 03:00 UTC 版)

ヤーコフ・ロストフツェフ」の記事における「農奴解放案」の解説

1857年1月3日アレクサンドル2世は、農奴解放目的とする「領主農民の生活状態の調整方策審議するための」秘密委員会(以下、秘密委員会)を設置し自ら議長となった皇帝信任厚かったロストフツェフ秘密委員会委員任命され改革案を作成したロストフツェフ改革案は土地無しの(土地付与しない形でのという意味)農奴解放反対していたものの、具体的に実現可能な解放案を提示はせず、1856年12月アレクサンドル2世提出されていたポルタヴァ県グベルニヤ)の貴族ポーゼン提出した農奴解放計画案支持し三段階による農奴解放提唱した。このロストフツェフ解放案は、本質的に農奴解放できるだけ引き延ばそうとするものと解釈されている。ロストフツェフ案と同調する見解先帝ニコライ1世時代農奴解放秘密委員会メンバーであったパーヴェル・キセリョフによって出された他、ロストフツェフの他、秘密委員会ガガーリンコルフ両名それぞれ解放案を提出したが、両案ともその内容消極的なものであった8月秘密委員会計画案がまとめられたものの、内容ロストフツェフによったものでニコライ1世時代秘密委員会決議内容において大差はなかった。 秘密委員会消極的な農奴解放計画案をまとめた後も、内務省は、ヴィリノ県知事ウラジーミル・ナジーモフに改革案の建議委託した他、省内で独自に積極的な農奴解放計画案農民の生活状態調整のための一般原則」を作成しロシア政府による農奴解放審議大きく前進させることに寄与した秘密委員会内務省案をナジーモフを加え審議の上12月20日アレクサンドル2世は、ナジーモフ宛勅書発布し内相セルゲイ・ランスコイの補足文書加え農奴制廃止について各県設置した貴族委員会による審議経てロシア全土一斉に農奴解放実施するという基本方針確定した1858年1月秘密委員会は総委員会(グラーヴヌィイ・コミテート)と改称され本格的な解放審議開始したロストフツェフ引き続き委員会委員任命され同年8月農民問題研究目的プロイセン派遣された。ロストフツェフは、プロイセンから皇帝に対して報告しその中で農奴解放実施に関する原則提出している。アレクサンドル2世はこのロストフツェフ報告参考にして12月指導原則」をまとめさせ「土地付き解放」へと転換図った1859年3月委員会内に各県貴族委員会から提出され解放案の審議目的法典編纂委員会が設置されロストフツェフ議長任命された。同委員会には、内務次官ニコライ・ミリューチン始めセミョーノフ、チェルカッスキー、ユーリー・サマーリンなどの解放推進派が多く任命された。しかしロストフツェフは、法典編纂委員会が審議開始して間もない1860年2月18日急死したロストフツェフ死後法典編纂委員会は解放令原案作成し、総委員会審議経て1861年国家評議会審議される反対多数占めたが、総委員会議長コンスタンチン・ニコラエヴィチ大公アレクサンドル2世によって農奴解放令発布された。

※この「農奴解放案」の解説は、「ヤーコフ・ロストフツェフ」の解説の一部です。
「農奴解放案」を含む「ヤーコフ・ロストフツェフ」の記事については、「ヤーコフ・ロストフツェフ」の概要を参照ください。

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