農奴解放の計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/18 13:33 UTC 版)
「パーヴェル・キセリョフ」の記事における「農奴解放の計画」の解説
1835年任務を終えてサンクトペテルブルクに帰還したキセリョフは、国家評議会議員に選出されるとともに、農奴解放秘密委員会に委員として所属し、翌1836年農奴制制限のための改革案をニコライ1世に提出した。この改革案はキセリョフの起案に基づいたものでキセリョフは早くも1816年頃には農奴解放について念頭にあったとされる。しかし、この改革案は地主層の激しい反対を呼び起こし結局、ニコライ1世は凍結せざるを得なくなった。 1838年国家資産大臣(国有財産大臣)に就任する。1839年勲功により伯爵に叙せられる。国家資産相としては国有地農民(農奴)関係行政について管理体制の改善など改革を実施した。また、農奴の子どもの教育に熱意を見せ学校を建設した。これらの学校は「キセリョフ学校」の名で呼ばれた。しかし、その一方でニコライ1世の治世は反動・保守主義者の勢力が強く、キセリョフの改革もこれら保守勢力によって掣肘され、閣僚としては充分に腕を振るうことができなかった。1855年ニコライ1世が崩御し、アレクサンドル2世が即位するとキセリョフは新帝の命で全権大使に任命されクリミア戦争の講和のためパリに急派された。その後1862年に健康上の理由で退官するまで外務省に籍を置き、以後も帰国することなくパリで過ごした。1872年11月14日パリで死去した。 キセリョフにはポーランドのシュラフタ出身であるソフィア夫人との間に一子がいたが夭折した。キセリョフ夫妻は甥に当たるミリューチン家の一族とその後を過ごした。キセリョフの甥にあたるのがニコライ・ミリューチン、ドミトリー・ミリューチン兄弟で、アレクサンドル2世の大改革でニコライ・ミリューチンは農奴解放令の作成に、ドミトリー・ミリューチンは陸軍大臣として軍制改革にそれぞれ当たった。
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