議会制度の改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 23:02 UTC 版)
カール12世が戦死したことを受け、スウェーデンではその妹ウルリカ・エレオノーラが女王に即位した。その後もロシアとの戦争は続いたが、状況はスウェーデン不利になる一方で、1721年に不利な内容のニスタット条約を締結して講和することになった。その間、1719年から1720年にかけて議会が王権を極度に制限し、議会に権力を集中させる新憲法を制定した。ウルリカ・エレオノーラはこれに反発して退位するが、既に議会との合意でその夫フリードリヒが王位継承者に決まっており、フリードリヒがフレドリク1世として即位した。新憲法の下でスウェーデンは貴族、聖職者、ブルジョワジー、農民の4身分からなる身分制議会による議会制を敷くこととなったが、4身分のうち3身分が合意しないと法律が制定できなかったため、4身分がそれぞれ利害を巡って反目する状況では国力が減退する一方であった。 各議会は、会期初めに選出された議長(talman)が取り仕切ったが、聖職者部会の議長は大司教が務めていた。貴族部会の議長(役職名はlandtmarskalk)は議会から選出される秘密委員会(hemliga utskott)の議長も務めた。秘密委員会は貴族50人、聖職者25人、ブルジョワジー25人で構成される場合が大半だったが、稀に農民25人も加えられた。秘密委員会は最高行政機関としてのみならず最高司法機関および最高立法機関としても機能しており、リクスダーグに提出されるすべての法案を準備し、各省庁および外交政策の統制も担当した。議会が閉会中の場合は枢密院(英語版)が代わって行政権を握ったが、枢密院も議会にのみ責任を負った。 このように国王の立ち位置はほとんどなく、元首というよりもむしろ飾り物程度の扱いでしかなかった。王権と言えるものは、枢密院に1票を有することと、戴冠式の1度限りで貴族を創家できる程度であった。
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