秘密情報局、そしてMI5へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/22 15:07 UTC 版)
「ウィリアム・メルヴィル」の記事における「秘密情報局、そしてMI5へ」の解説
その後、1909年に政府情報委員会によって「秘密情報局」(Secret Service Bureau)が設置された。SSBは国内部と国外部に分かれており、国内部は陸軍出身のヴァーノン・ケル(後のMI5の初代長官)、国外部は海軍出身のマンスフィールド・カミング(後のMI6の初代長官)が運営していた。メルヴィルらの機関は国内部に組み込まれた。「M」というコードネームで呼ばれていたという。第一次世界大戦頃までに、SSBはMI1(後のMI6)とMI5の二つの組織に分かれた。 ドイツとの関係が冷え込んでいた1903年に、メルヴィルは政府に防諜組織を設置するよう働きかけを行った。この頃には、イギリス情報機関の関心はドイツに向かっていた。1906年にドイツの動員計画を入手したSSBは、ドイツからボーア人への財政援助を調査した。SSBは情報収集の拠点とするため、カレッジ・ブルワリー(en:Courage Brewery)のハンブルク事務所を買収した。1909年には、より多くの協力者を獲得するためにメルヴィル自身もドイツに向かった。 SSBの中でも、メルヴィルの機関はドイツのスパイを探すことに専念した。1914年8月にはドイツのスパイ組織の中心であったカール・グスタフ・エルンストの理髪店を突き止めた。第一次世界大戦が始まると、MI5は多くの予算を得るようになり、人員を大幅に増員して新たに工作員と疑われる相手を調査する「Gセクション」を設立した。また、陸軍省向かいのホワイトホールコート(en:Whitehall Court)にスパイ学校を開設した。 1918年2月に、腎不全で死去した。タイムズの記事 によると、関係者のジム・フィッツジェラルドはメルヴィルについて、「我々は彼を誇りに思います。1913年に彼が最後にスニームを訪れた時にはフィーニアン(アイルランド共和同盟)に監視されていて、長くは滞在できなかった。今は彼がここの出身であることを皆が誇りに思っている」と述べたという。
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