クラルテ‐うんどう【クラルテ運動】
クラルテ運動
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1919年、次の戦争小説『クラルテ(光明)』を発表し、知識人の国際反戦・平和運動「クラルテ」を結成。機関誌『クラルテ』を刊行、編集長を務めた。この運動は、当時パリ法科大学で学んでいた小牧近江が参加し、帰国後の1921年にこの影響を受けた文学・思想雑誌『種蒔く人』を創刊したことで日本で広く知られることになった。彼は1924年にバルビュスの『クラルテ』の邦訳を発表しているが、小林多喜二も同じ1924年に同人雑誌『クラルテ』を創刊し、主宰するなど、日本における国際主義、反軍国主義、ひいてはプロレタリア文学運動の基盤となった。 クラルテ運動は第一次世界大戦の反省から反戦(反軍国主義)、国際主義を掲げながらも当初は政治的立場が不明確で、混乱もあったが、まもなく資本主義を批判し、ボリシェヴィキを支持。コミンテルンへの加盟を呼びかけ、議論の場となった。こうした議論は、1920年12月のフランス社会党(労働インターナショナル・フランス支部、SFIO)のトゥール党大会におけるコミンテルン(第三インターナショナル)への加盟および「共産主義インターナショナル・フランス支部」(Section française de l'Internationale communiste、SFIC)への改称(1943年のコミンテルン解散に伴い現在の「フランス共産党」に改称)につながった。 バルビュス自身は当初、マルクスの孫でフランス社会党(SFIO)員ジャン・ロンゲ(フランス語版)(1919年までSFIOの議員、その後シャトネ=マラブリー(オー=ド=セーヌ県)の市長)を支持していたが、やがてコミンテルンを支持し、1923年に共産党に入党した。以後、彼にとって作家としての活動と政治活動は密接に関わるものとなり、『戦士のことば』(1920年)、『刄をくわえて』(1921年)、『奈落に閃く光』(1921年)にはこの間に彼が自らの思想的立場を表明したテクストが収められている(邦訳は青野季吉訳『闘争に赫く光』、小牧近江・後藤達雄共訳『知識人に与う』として独自に編纂・刊行)。 『クラルテ』誌は、バルビュスと同じく戦争体験から反戦運動に参加したマルセル・フーリエ(フランス語版)が編集を担うと、共産党を中心に左派政党の党員や政治活動家が多数参加し、共産主義革命を目指す雑誌となり、1923年10月にドイツ共産党の革命(蜂起計画)が失敗した後、しばらくは方向を見失っていたが、ソレルとプルードンの思想に基づくサンディカリスムの理論家エドゥアール・ベルト(フランス語版)の参加によって結束を固めた。 作家として共産党に入党したのはバルビュスが最初であったが、『クラルテ』誌が1924年に反資本主義を唱え、モーリス・バレスやアナトール・フランスに代表される古典主義文学を批判したことから、アンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴンらのシュルレアリストの共感を得た。というのも、シュルレアリストは1921年に極右的な政治思想に傾倒したモーリス・バレスに対する批判する即興劇「バレス裁判」を上演し、1924年にアナトール・フランスが死去すると、彼が代表する文壇の権威主義を批判する小冊子を、ブラックユーモアを込めて『死骸』と題して刊行して一大スキャンダルを巻き起こしていたからである。一方、『クラルテ』は、バレスのショーヴィニスム(排外的愛国主義)、「盲目的軍国主義」を糾弾し、1923年に彼が死去した際には「アンチ・バレス」特集、アナトール・フランスが死去した際にも「アンチ・フランス」特集を発行した。『クラルテ』誌とシュルレアリストとのこうした協力関係は、反戦運動においても同様であり、1925年には共同でリーフ戦争反対の声明「まず革命を、そして常に革命を」を発表。この声明は共産党の機関紙『リュマニテ』(1925年9月21日付)と『シュルレアリスム革命』誌第5号(同年10月15日付)に掲載された。この後、シュルレアリスム運動に参加し、機関誌『シュルレアリスム革命』の編集委員であったピエール・ナヴィルがマルセル・フーリエとともに『クラルテ』誌の編集を担当すると、まずアラゴンが積極的に寄稿し、次いでポール・エリュアール、ロベール・デスノス、ミシェル・レリスも参加した。一方で、編集方針としてはマルクス主義であったが、編集委員のナヴィルが1928年のソビエト連邦訪問を機にレフ・トロツキーの左翼反対派(フランス語版)の活動を支持し、『クラルテ』誌がトロツキズムに傾倒したことから、共産党に批判され、内部対立により1928年に終刊となった。ナヴィルはこの後、トロツキズムの雑誌として『階級闘争(la Lutte de classes)』を創刊、バルビュスは文学、芸術、科学、経済、社会問題の総合雑誌『モンド(フランス語版)(世界)』(『ル・モンド』紙とは無関係)を創刊し、死去する1935年まで編集長を務めた(同年廃刊)。
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