クラルテ運動を広める雑誌として
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「種蒔く人」の記事における「クラルテ運動を広める雑誌として」の解説
『種蒔く人』は、小牧がフランス在留中に傾倒したクラルテ運動を日本において広めるという趣旨のもと創刊した雑誌である。小牧は1910年(明治43年)から1919年にわたってフランスに在留し現地で学んでいるが、その間に勃発した第一次世界大戦は小牧に大きな衝撃を与え、戦争への疑問をもたらすものとなった。「クラルテ」(仏:Clarté)とはフランス語で「光」、「光明」を意味し、「クラルテ運動」の名はアンリ・バルビュスの同名の小説に由来する。小牧自らが解説するところによると、クラルテ運動の目的は「軍国主義の打破、人間を区別する所の凡ゆる階級の撤廃、人間生活の尊重、男女の差別なき平等社会の建設、健全なる人間の義務労働」を目指したものであるが、およその性格としては第一次大戦後に湧き上がった平和希求の運動を人道主義、社会主義的な立場から一つにまとめあげようとしたものであった。クラルテ運動は1920年以降共産主義への傾斜を強めていくことになるが、小牧はそれ以前の1919年に帰国しており、したがって小牧が日本において広めようとしたのは初期クラルテ運動の精神ということになる。小牧は1918年の秋にバルビュスと面会しており、帰国の折にはバルビュスにより「反戦運動のためにひろく同志を糾合するように」との要請を受けている。 一方で、クラルテ運動は理想主義・観念主義的に過ぎ、その運動に沿った活動は当初より対立の芽を内包するものであった。提唱者であるバルビュスもリベラリズムから共産主義への転向をあらわにし、1923年には共産党に入党している。バルビュスの思想に共感した小牧も第三インターナショナルの考えに賛同しているが、一方で運動初期の精神を引き継いだ小牧にはその後フランスで起きた対立はあまり影響せず、ロマン・ロランがバルビュスと論争を起こした際もロランを擁護している。しかし、クラルテ運動の漠然とした性質がフランス国内で対立をもたらした図式はそのまま日本でも同じ経緯を辿ることになり、より革命への明確な理論と道筋を主張する論者は小牧と袂を分かつことになる。小牧が描いた第三インターナショナルへの道筋は『種蒔く人』の同人たちと共有されていたとは言い難く、『種蒔く人』の後身である『文芸戦線』では中西、村松、松本が脱退していくのである。『文芸戦線』はその後も分裂と脱退を重ねていき、日本プロレタリア文学の主流は『戦旗』が担っていくことになる。『戦旗』において論陣を張った作家たちを中心に構成された日本プロレタリア作家同盟はバルビュスを功績あるとしながらもマルクス主義から離れていると批判しており、かくしてバルビュスに影響を受けた小牧は日本のプロレタリア文学運動に先鞭をつけながらもその主流から取り残されて行くことになった。
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