第1巻と第2巻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 17:13 UTC 版)
第1巻と第2巻がユダヤ教的かキリスト教的かは過去様々な議論があったが、現在では、ユダヤ教徒が作成したものをキリスト教徒が改訂したと見なされている。その時期については大きく分けて2つの立場があり、ユダヤ教的土台もキリスト教的加筆も3世紀のこととする説と、紀元前後にユダヤ教部分が成立し、西暦150年以前にキリスト教的加筆が行われたとする説である。日本語訳を公刊した佐竹明は後者の立場を支持している。 第1巻と第2巻には、第7巻、第8巻と強い類似性を示す箇所が複数存在し、どちらがどちらを真似たと見なすのかも、こうした成立年代の問題に関わってくる。 第1巻と第2巻は小アジアのどこかで成立したと考えられている。とりわけ、第1巻のユダヤ教部分には、ノアの大洪水と関連付けてフリギアを特別視する記述が複数見られることから、ユダヤ教的土台がフリギアで成立した可能性が高いとされている。 第1巻 第1巻は400行から成っている。第1巻の中核をなす1行目から323行目まではキリスト教的要素を含んでいない。その内容は、天地創造、アダムとイヴのエデンの園からの追放、ノアの方舟など、『創世記』の物語が土台となり、10に分けられた世代のうち、7番目の世代までの歴史を辿るものになっている。 それに対し、直後に続く324行目から400行目までは明瞭にキリスト教的であるだけでなく、反ユダヤ教的でさえある。その内容は、主としてイエスの降誕や様々な奇跡、磔刑などを述べたもので、新約正典でそれらを扱っている共観福音書の記述を逸脱する要素はなく、内容的に重複する部分も少なくない。たとえば、この記事の右上で引用した東方の三博士に関する記述は、『マタイによる福音書』第2章11節が下敷きになっている。 第2巻 第2巻は347行で構成され、主として最後の審判が描写されている。内容上は第1巻と強い連続性を持っており、写本ではもともと一体のものとして扱われていた。その序盤に当たる33行目までは第1巻のユダヤ教部分と直接に繋がる内容だが、唐突に10番目の世代に飛んでおり、8番目と9番目の世代の話を欠いている。これはキリスト教的加筆を行った人物が、終末論に特に関心を寄せる一方、それ以前の世代の話題にあまり関心を持っていなかったために、省いてしまったのだろうと推測されている。 そのキリスト教的加筆は第1巻に比べてユダヤ教部分と峻別することが難しいとされるが、34行目から55行目だけは明瞭にキリスト教的とされる。56行目から148行目は擬フォキュリデス (Pseudo-Phocylides) から再録された教訓的な詩で、文脈に適合していない挿入的要素のため、写本によっては脱落している。154行目から始まる一節は、全体としてストア派の概念が混入したユダヤ教的な終末論だが、キリスト教的要素の混入の可能性も指摘されている。その描写には福音書でイエスが語る終末の光景や『第四エズラ書』など他の黙示文学と共通するモチーフが含まれ、バラキエル、ラミエル、ウリエルといった天使、ハバクク、ダニエル、エリヤといった旧約の預言者の名が挙げられる一方、タルタロス、エリュシオンといったギリシア神話的要素が織り込まれている。なお、写本によっては、バラキエルやラミエルはより一般的な天使であるガブリエルやミカエルが採用されている場合がある(右に参考画像とともに引用した章句も参照のこと。これは後述するミルトン・テリー版に基づく)。
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