島津氏との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 09:05 UTC 版)
ただし、大友家の実権は依然として父の宗麟が掌握していた。天正6年(1578年)、日向国に侵攻するも、耳川の戦いで大敗を喫し、以後は大友家臣団の分裂が始まる。また、父との二頭政治にも弊害が現れて父と対立し、かえって大友家の内紛を加熱させることとなった。 天正8年(1580年)には有力庶家である田原親貫や田北紹鉄が反乱を起こし、秋月種実と内通したので、その鎮圧のために一時府内を本拠に戻さざるを得なかった。 重臣・立花道雪が病没、さらに肥後方面を押さえていた志賀氏とも疎遠となる。かつては大友氏の版図であった肥後・筑後・筑前は次第に肥前国の龍造寺氏や薩摩国の島津氏に侵食されていった。 天正14年(1586年)、豊後武宮親実の臼杵城、大津留氏の松ヶ尾城(城将橋爪某)などを従え豊前龍王城を拠点としていたところ、島津義久による豊後侵攻(豊薩合戦、天正の役)が始まる。宗麟や義統への忠誠心を失っていた家臣達は相次いで離反し、また高橋紹運が岩屋城で戦死するなど(岩屋城の戦い)、大友氏は滅亡の危機に立たされる。
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