島津氏の反攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/02/25 06:06 UTC 版)
撤退した島津・相良連合軍は、今度は肥後国守護代として八代にいた島津義弘を総大将にした主力部隊を、同月13日に阿蘇領へ後詰として侵攻させた。この島津・相良連合軍の前に堅志田城、花の山城、御船城は相次いで陥落し、親英は剃髪して降伏した。御船城の北にある赤井城や木山城も陥落した。木山城の東にある津森城も陥落し、その北にある今石城も石原吉利が徹底抗戦した末に玉砕、今石城の北に位置する竹迫城も陥落した。こうなると前年の戦いで高森惟居が奪回していた岩尾・長野・南郷・下田の諸城も島津勢の侵攻を恐れて次々と開城する有様だった。 高森城の高森惟居は再起を図るため豊後へ向かう途中、家臣の裏切りにより島津勢の追撃を受け討死した。高森城の落城により、島津氏の肥後平定は完了したのである。
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